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2019年3月17日 (日)

ゆきゆきて「皇軍」ハルモニ―タブーの映画

 40年も前に作った映画『沖縄のハルモニ』が、、3月23日(土)に同じアップリンク渋谷小劇場(東急デパート本店裏 6825-5503)で連続6回目上映することになった。8ミリ同時撮影機で撮ったもので、御世辞にも綺麗と言えないザラザラの画面に、沖縄本島南部の砂糖キビ畑片隅の3畳の掘っ建て小屋に棲んでいるハルモニ(朝鮮語でおばあさん)が、ぼくの質問に答えるものである。

 会うまで一週間かかった。畑から掘っ立て小屋へ行く一本の小川が渡れないのである。撮影スタッフは8月のカンカン照りの下で、毎日朝から晩までハルモニの撮影許可が出るまで、音を殺し、ひたすら待った。日ごろのお世話をしている朝鮮総連の若奥さんが説得に当たってくれているのだが、ハルモニは頑なにぼくたちと会うことを拒否した。

 75年に沖縄に生き残りの朝鮮人「慰安婦」がいるということが、那覇入国管理局から漏れ、多くの人たちが取材を試みているが、あえなく玉砕している。時には気分を害したハルモニが鎌を振り上げて取材者を追い払った事実を聞いているので、こちらはただひたすら気分が好転し、取材OKが出るのを待つしかない。

 たまたま説得を依頼した若奥さんとハルモニが厚い信頼関係があったせいと、その日がハルモニにとって、珍しく気分の良い日だったせいか、一週間待ってようやくOKが出た。掘っ立て小屋から出た若奥さんが小走りで橋のそばへ駆け寄り、手招きしてくれた。若奥さんも興奮していた。

 いざ、橋を渡って、撮影を始めようとすると、ハルモニが大学同期の李君に拒否反応を示す。インタビュアー兼コーデネータとしてわざわざ沖縄まで来てもらったが、ぼく一人がインタビュアー兼カメラマンとして両役こなさなければならなくなった。やはり、カメラを廻しながら、質問するのはつらい。それ以上にハルモニが、予想外の答えを出すのである。

 「日本軍に勝ってほしかった、ええ、山(慶良間諸島渡嘉敷島日本軍陣地)にいるとき、そう思っていたんですよ」と、断言されると、ぼくはどう受け止めてよいのか、解らず、カメラを廻したまま絶句してしまう。辛うじて、「朝鮮人慰安婦であるハルモニは本当にそう思ったのですね?」と確認するだけである。「ええ、そうです」と自信をもって肯定する。

 ぼくの頭の中では「私は日本軍の被害者で騙されて沖縄に連れてこられたんです、悔しい、アイゴー」と言って、朝鮮半島独自の「身世打鈴」で激しく嘆くはずだったのに…。真逆の反応にぼくだけでなく、映画の観客の多くはこのシーンに息を呑む。どうして、ハルモニはこんな反応をするのか、未だにぼくはよく解からない。

 このシーンに留まらず、不可解な場面が続く。ハルモニは美空ひばりの大フアンで、熱狂的な追っかけであった。そして、美空ひばりの歌を知らないぼくを「非国民」と言って、大々的に糾弾する。東大入試に美空ひばりの「リンゴ追分」の歌詞はなかった。それでも、ハルモニは執拗に音痴のぼくに「リンゴ追分」を歌わせようとする。根負けしたぼくがうろ覚えの歌詞をうたうと、観客のほとんどが嘲笑する。こんなもの、どこが面白いのだ、と編集に言っても「いやここが面白いのです」と断固却下された。

 最後にハルモニと那覇のアパートに移った時、一緒に夕飯を食った。その時、「おいしいね、夫婦みたいに」と漏らし、「私は哀れな星の下に生まれてきたんたんですよ、母は駆け落ちし、父は小作人で兄弟バラバラになってしまったんですよ」と泣き出された時、ぼくはそれをどう受け止めてよいか、おたおたした。それは同時録音のカメラにそのまま収録されている。

 『沖縄のハルモニ』は恥ずかしい、みっともない映画である。英国映画研究所でドキュメンタリーを学び、日本映画学校(現 日本映画大学)で20年間もドキュメンタリーを教えていたぼくの最大汚点ともいえる。しかし、10本近い、監督・制作作品の中で、今もって支持され、上映されているのは、その下手っぴーな、恥だらけな『沖縄のハルモニ』だけであることは事実である。

 残念ながら『沖縄のハルモニ』が許せない、と言う一部の「慰安婦支援団体」の人がいるのは事実である。その人たちの間では『沖縄のハルモニ』はタブーである。しかし、実際にこの映画、特にぺ・ポンギ ハルモニを見てほしい。

 日本の朝鮮支配―植民地制度の実態が良くわかるとおもうのだが・・・。

 * 前売り券が順調に売れています。全5回と同様、当日、前売り券がないとは入れない可能性が出てきました。お手数ですが、早めに6825-5503に電話してください。

 

2019年3月11日 (月)

こいつは春から縁起が良いや…。

 山谷個人商店は1月25日の右踵腫瘍手術で雑菌が混入され、右足が痛みのため、伝い歩きしかできなくなっているのが現状である。多くの友人、知人たちに助けてもらい、何とか3月23日(土)「第六回『沖縄のハルモニ』アンコールショウ」をアップリンク渋谷小劇場(東急デパート裏 6825-5503)で開催できるようになった。

 気候も良くなり、気温も上がり、『ハルモニ』も快調に前売り券が売れており、喜ばしい限りである。それに付け加わるように、3っのうれしいことが見近に起こった。

 ① 「老いてなお花となる―第二章 俳優・織本順吉92歳」(NHK BS1 3月6日再放送)を見たことが、まず第一の喜びであった。最高裁の判決があり、日本国民であるならば、よほどのことがない限り、受信料を毎月払わなければならなくなった。昨年、同じNHKBS1で放映された「舳倉島」のドキュメンタリーは、タレント、デレクターともに能力不足で、日本映画学校の卒業制作のほうがはるかに上出来である。こんなものに受信料を要求するNHKは詐欺である。

 しかし、何回も放映された「インパール」は傑作で、素直に頭を下げた。よく、インパール作戦の最大の戦犯・牟田口中将の側近の将校と手帳を探し出した。もう、余命いくばくもないその将校が作品後半、テレビカメラの前に車いすで出てきて、「あれは無謀な戦争だった」と言い切ったのは、聞いているぼくでさえ、体がブルブル震えた。さすがNHK!

 今年に入り、「老いてなお花となる―第二章」を見て、再びあの「インパール」の衝撃を思い起こした。圧巻は92歳の頑固な老優の介護をしている奥さんが、余りの我儘に切れて、夜叉のように怒り出すところである。娘でなければ、撮れないシーンである。こんなものを見てて良いのだろうか、という雑念が湧いてきたことも事実である。
 第一章は構成が多岐にわたり、感情移入しにくいところがあったが、第二章は老いと役者への執着に論点が絞られ、見やすかった。

 いよいよ、最終章である。「死」をカメラはどう撮るのか?
 その時のカメラの反応を見てみたい。

 ② 3月9日(土)に崔君と約10年ぶりにあった。03年に都立大学大学院で、一緒に社会福祉関係の英書購読した仲間である。もう45歳前後か?ぼくは国の機関から年200万円近くもらって、会社から週2回、都立大学へ行けばよかった。いわゆる「単位等履修生」という制度である。テレビ番組制作会社企画部長と言っても、せいぜい週1で企画書を提出すればよい。暇で暇でしょうがないので、それだったら週2回、都立大学へ通ってもらって、200万円会社に入れてもらったほうが良い、と会社の上層部が判断したようだった。
 学部の授業はそれなりに面白かったが、そのうち大学院の先生から英書購読に誘われ、そこで崔君と出会ったのだ。院生の大半は研究者を目指す人たちなので、退屈な人が多かった。その中で唯一、波長が合いそうだと思ったのは崔君だった。苦労人の雰囲気が伝わる。

 韓国の地方大学を出てから、青山学院経済学部を卒業し、それから都立大学大学院に入っている。ソウル、延世、高麗大学を出なければ、韓国では、日本以上に出世の道は断たれる。その中で、崔君は良く都立大学大学院まで這い上がったと、素朴にぼくは感動した。
 院でも修士だけでなく、PHD(博士号)まで取り、地方大学だが4月から準教授になる。人文系学者の中、特に50歳以上の高齢者では博士号を持っている人は決して多くはない。

 例外中の例外である。
たまたま、3月23日の上映用ビラを送ったら、崔君のほうから連絡があり、久々の出会いとなった。こんな韓国人―日本の地に根を張ったーを見るのは、心の底からうれしい。
 ちなみに、そんな崔君を支え続けたのは、ぼくの地元・高岡高校卒の女性である。奇妙な因縁を感じる。

 ③ 小・中の同級生(女性)に3月23日用ビラを送ると、友人、知人を誘いあって来てくれるというではないか!ガンで早く死んだ夫も同級生で、彼も奥さんの包容力に打たれ、結婚したのだろう。高校から慶応へ行き、20年ほど前の同窓会で再会した。
 初めは、同級生の誰もが彼女が「わがクラスの女王」だということに気づかなかった。どちらかというと「口紅を塗った重戦車」の雰囲気が強かったが、バドミントンで体重を落としたらしい。
 俳句の世界では著名人らしいが、ぼくは全く知らない。ただ、小・中の同級生で、たまたま気が合っていたので、「女王陛下のパシリ」として、古希にいたるまで仕えただけである。
 彼女がいるだけで、すっきりまとまる。最近は孫たちの面倒を見るのに忙しいが、そこを無理を言って、ぼくが尊敬する秩父の俳人の「句集」を出すのを手伝ってくれないか、と懇願した。意外に簡単にOKがもらえ、春には秩父へ行く予定である。

 男と女の間には「友情は無理」と、同期たちには不評だが、今回3月23日上映会協力、友人の句集編纂には、女王様が助けてくれる。ただし、女王様の凝りに凝ったお召し物を誉めなければならないが…。

 なんだ、かんだ言いながらも春一日、過ごしています。こんなちっぽけな3っの喜びを胸に抱きながら、老兵は何とか生きています。
 

2019年3月 4日 (月)

ひたひたと、『沖縄のハルモニ』3月23日本番が近づいてきます。

 ひたひたと、『沖縄のハルモニ』第六回アンコール上映(3月23日アップリンク渋谷 6825-5503)が近づきつつある。今回は特に1月25日右足踵の腫瘍切断ミスで、今日にいたるまで右足に痛みを抱えている。薬とリハビリで、一時に比べれば、鈍痛は軽減したとはいえ、まだまだ両足で歩くのは無理である。

 そんな中、「泣き面に蜂」で、8日(木)に何時ものリハビリ場から、突然、退場を求められた。この日は寒く、ましてや雨が降っているから、自宅から5分もあればユトリをもって行けるのに、体調がおかしい。看護師に再度体温を測らせる。前が37.6度だったものが、38.2度まで急上昇している。この急激な低温のためだ。

 何時もの体温は36度で、稀には35度ということもあるが、38.2度はここ10年経験したことがない。それに36年も住んでいた笹塚(渋谷区)ではインフルエンザ、風邪の注射なんか、打ったことはなかった。それだけ、自分の健康には自信があった。

 看護師は突然の数字に慌てふためいて、「インフルエンザの可能性があるます。大至急、お帰りください。リハビリ科には私のほうから連絡しておきます」と、体よくおっぽりだされ、しとつく雨の中、自宅へと急いだ。コートはバーバリーの30年も着ているトレンチコートだが、防水、防寒という面では問題がある。体中、雨にたたられ、下着、上着を着替えた。

 そのうち、ゾクゾクと体が震えてくる。かみさんがパートに行っている老人施設で、インフルエンザを移され、寝込んだのと同じ状況だ。たまたま、かみさんは予防注射を前もって打っていたので大事にいたらずに済んだが、まさか連れ合いに移すとは(その時は100%そう思っていた)!

 一晩、信じられないほどの汗、尿を放出してたが、翌朝気分さわやかに起きれた。薬は一切飲んでいない。飯も食わず、せいぜいが「タウリン」を飲んだだけだ。冷たくて,美味しかった。一応、念のため、翌朝「光が丘病院」のインフルエンザ科で確認をしてもらったが、医師の診断は「単なる風邪です」と、素っ気ないものだった。

 単なる風邪の場合、なにも薬を飲まず、部屋を温かくし、寝ているのが一番のようだ。


 幸い、風邪が大事にいたらず、春にも良いことがある、と密に喜んでいる。一つは三多摩で反原発運動を個人で続けられてこられた人と、東中野駅前映画館ポレポレ坐入口のベンチで春のウトウトする光の下で、久しぶりに会えたことだ。

 「会おう」、「会おう」とお互い声掛けしているが、なかなかぶつかる日がなかったが、たまたまインフルエンザ疑惑が晴れ、公明正大に会うことが出来た。こちらは3月23日のビラを30枚も預けた。入院のため、撒くのが遅れに遅れ、友人、知人、そして教え子に頭を下げつつ、各スポットに10枚ぐらいは置いてもらつている。

 30枚も預けたので、今度は向こうが一押しで推している「沈没家族」(4月ポレポレ坐 3371-0088で”里帰り"ロードショー!」のビラを大量に持って帰ることになった。ぼくの直感だが、この映画は面白そうだ。中野区の片隅で、あるシングルマザーが始めた「共同保育、共同生活は何だったのか」、を息子である加納土さんが1本の映画にしている。

 もう一つ、嬉しいことを書かせてほしい。
 3月1日からアップリンク渋谷では、『沖縄のハルモニ』と、『セウォル号の真実』の予約を受け付け始めた。SNS等の宣伝なしで、ビラだけの反響である。1~2日の二日だけで、『ハルモニ』が8枚、「セウォル号』が8枚の予約がもう入った事実に、支配人は驚いていた。アップリンクでは、かなりの反響のようだ。

 これからアップリンクとしては、得意のSNSを駆使して、渋谷・吉祥寺のアップリンクチェーンを「集客マシーン」として活用するだろう。ぼくとしては『ハルモニ』のように一時期忘れられたような作品が、この流れの中から何回も上映することで、準古典のような扱いを受けるように夢想している。

 まずは 『ダイビング・ベルーセウォル号の真実』が当初の勢いを本番まで持続できるかである…。

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」
 理由はなんとでも付けられる。セウォール号が満員だったら、全国各地の上映が直ちに決まるし、空席が目立てば、興行関係者が鼻もひっかけなくなる、だけである。
 この映画界で生き残るには、とにかく「満員御礼」の札を入場口に貼り続けることである!

2019年2月24日 (日)

病気は一進、一退です。でも、頑張ります。

 30歳代の酒の飲みすぎが祟り、糖尿病に苦しんでいる。でも、薬でかなり軽減され、日常生活的には、不便はさして感じない。ただし、6年前の心臓バイパス手術の時には、慶応大学で普通の患者は約1ヵ月で退院したが、糖尿病を患っているぼくは約3ヵ月もかかってしまった。異様に長い。

 2月25日に自宅近くの練馬光が丘病院で右踵腫瘍の手術も、翌日からいつもの通りに動けるはずが、手術のあまりの痛みに大声をあげてしまった。普通の人の倍以上の麻酔をかけても、このありさまである。

 医師も何故、これほどの苦痛、そして痛みが長引くか、よく理由が解っていないようだ。しかし、4年ほど前に同じような症状でJR病院に3か月も通院していたので、主因が糖尿病にあることをぼくは解っている。

 JR病院は同じ踵の腫瘍でもまだ軽度だったので、左足の皮膚を切り取り、右踵に移植し、問題なく手術を終えた。しかし、今度はぼくが想像していた以上に腫瘍が進み、かなり深く患部を切除しなくてはならないようだった。そこがJR病院と同じ程度だと、思い込んでいたぼくの判断ミスだった。

 形成外科医師たちの懸命な治療で、痛みはまだまだ残るが、何とか両足で立てるまで回復した。塗り薬だけでなく、週2回のリハビリも効果がある。病院でほとんど使わなかった右足をリハビリ場で無理やり動かし、「痛い!」と泣き叫ぶが、その効果で、着実に両足で踏ん張れるようになった。

 でも、まだまだ一人で外出は無理である。電動車いすを使わねば、怖くて外に出れない。それに、夜になると痛みがジワリと増し、痛み止めを飲まないと安眠できない。厄介な病気だということは百も承知だが、かみさんや息子に迷惑をかけることが、申し訳ない。

 痛みが急激に減るということもないし、毎週1回の形成外科で塗り薬の効果を医師とともに確認するしかない。「忌々しい糖尿め!」とせいぜい毒づくしかない。後は、週2回のリハビリで、萎えた右足の筋肉に負荷をかけ、徐々に筋肉をつけるしかない。

 ぼくの判断ミスで『坐・高円寺』の企画スタッフやデザイナー、アップリンク渋谷の支配人たちに多大な迷惑をかけた。ただ、多少時間はかかるが、ちょっぴりずつ良くなってることは事実である。

 一番迷惑をかけたのは、かみさんだろう。毎日、踵の腫瘍の傷跡に塗る軟膏の面倒くささは異常だ。体調の好いときは問題ないが、多忙時、風邪ひいたときは「貧乏神のあなたと結婚したのが、人生の最大失敗」と毒づかれ、当方はひたすら無言である。
 だって、拾ってもらった事実があるから…。

 そんなことで、ひたすら右足の治りを祈っています。何しろ、3月23日(土)のアップリンク渋谷での「第六回『沖縄のハルモニ』上映+ぼくの講演会」が間近に迫っているので…。

 

2019年2月17日 (日)

足の痛みを堪えながら3月23日アップリンク上映準備をしています。

 1月25日(金)に足踵にできた潰瘍を削ぎ落す手術を受け、殺菌効果ミスで雑菌が入り、この3週間、入院、通院が続き、山谷個人商店はてんや、わんやだった。まず、『座・高円寺』主催の2月8日「戦争とドキュメンタリー」展で、『沖縄のハルモニ』は出品できたが、肝心のゲストのぼくが行けるか、いささか自信がなかったが、主催者たちの熱気に打たれ、なんとか観客の前に姿を現すことが出来た。

 幸い、『ハルモニ』の編集を独断でやった安岡卓治くんの司会で、つつがなくトークを終えることが出来た。しかし、ぼくはと言えばヘロヘロの状態で、帰宅後寝込んでしまった。退院は2月5日(火)だったが、右足に力が入らず、自宅でもかみさんや息子の手を借りねば、日常動作が出来なかった。

 それが日一日、、痛みが薄らぎ、傷口にピンク色のかさぶたのようなものが出来てくると、まだまだ両足で歩くのは無理だが、なんとか伝い歩きできるようになった。現在住んでいる光が丘UR(旧公団)は、ほとんどがバリアフリーに設計されて、そういう面では助かるが、まだまだ段差が残っているところがある。廊下から居室へ移るところに、わずか2センチぐらいの敷居があるが、いったんキャスター付きの椅子から降り、新しいキャスター付きの椅子に移らなければならない。

 健常者だったら何の問題もないが、右足が萎えているぼくにとっては「鬼門」だった。しかし、2月11日ぐらいから一人で乗り移れるようになった。しみじみと筋力、特に腹筋の大切さがよく解かるようになった。

 体力がついてくると、今度は3月23日アップリンク渋谷での「第六回『沖縄のハルモニ』上映」の準備に追われるようになった。幸い、デザイナーの奮闘により、5000枚のビラは『座・高円寺』や、渋谷・新宿・東中野・吉祥寺等のミニシアターに配布されている。それに今回初めてチームを組む安海龍監督(ソウル在住)が日本の仲間を総動員して、3月23日の『ダイビング・ベルーセウォル号の真実』を満員にすると約束しているので、安心している半面、不安であることは事実である。

 でもセウォル号は2014年4月16日に300人余りの高校生を載せ、珍島沖で沈没しているにもかかわらず、「動くな」と一方的に指示を出し、そのくせ船長たちは海洋警察に保護されている。
 現在のもつれにもつれた日韓関係を考えるうえで、セウォル号事件は一つの答えのヒントを出している。自分さえ助かれば、自分の命令で、他人がどれだけ死のうが構わないのである。余りにも無責任すぎる。
 沈没した日、4月16日はつい間近である。3月23日の上映会は安監督の他に多くの映画人が集まると聞いている。どれほど、盛り上がるか、楽しみである。

 かみさんの助けを借り、今日から50通の手紙を書いていく。遅れに遅れたが、3月1日までには、すべて郵送したいと決意している。ぼく直筆の手紙が意外に効果的なのである。
 ぼくの手紙は、人間としてまだ「伸びしろ」がある、と踏んだ人にしか出さない。
 言い換えるならば、可能性を評価した「幸運の手紙」なのである。手紙が配達された人は、喜んで良い!

 まあ、痛みが薄らぐまで外出を控えているが、2月下旬から少しづつ外出する。久しぶりにまた友人、知人たちの顔を見に行きたい…。

2019年2月11日 (月)

練馬光が丘病院―体験記

 1月25日(金)に練馬光が丘病院で、踵の腫瘍の切断手術を受けた。持病の糖尿病の悪影響で、小さな傷が時間とともに黒い腫瘍にまで肥大したのだ。週2回利用しているリハビリ訓練所の理学療法士に、「大事にならないうちに、形成外科で診てもらったほうが良い」と薦められ、自宅近くの練馬光が丘病院(最近までは日大光が丘病院だったが、金銭面等、諸条件が合わず、撤退。現在は自治医大系のJADECOMが経営している。ただし、形成外科は依然として日大病院から出向中)へ通った。

 いつもだったらJR病院か、慶応大学病院に手術を任せるのだが、4年前同じような症状で通ったJR病院が、もっと浅い症状にもかかわらず、完治まで約3ヵ月かかったので、今回は忙しさを考慮し、断念した。もう一方の慶応大学病院は都営地下鉄大江戸線国立競技場前下車で、我が家から少し遠すぎる。たかだか、腫瘍切断のために行くほどの病院ではない。

 練馬光が丘病院は完成後、30年は経っている古臭く、狭く、汚い病院である。改築が終わったJR病院や慶応大学病院に比べると見劣りがする。でも、自宅が近い、それに上映会等を控えて多忙なぼくにはあまり文句を言えない。2Fの狭い廊下を恐る恐る行くと形成外科がある。
 25日3時に担当医師による切開手術が始まった。

 26日(土)は東中野ポレポレ坐で、新人監督の上映会があるので、「参加する」とメールを出し、同期、後輩たちにも声をかけ、大勢で行くつもりだった。手術前に担当医師に確認している。「明日のポレポレ坐には必ず行けますね」。医師の答えは「大丈夫です」。その言葉を信じて、「大船に乗ったつもり」で潰瘍で黒光りした右踵を出した。

 一応は麻酔を使っていると強弁するのだが、量が少なく、それに麻酔が乾く暇もなく、メスを入れ、ガリガリ患部を削るので、飛び上がるほど、激痛が走る。71歳だが、元映画監督で声量が異様にあるぼくが目一杯、「痛い、痛い、痛い」を連発するので、2F待合室で待たされていた患者は怖気をふるったと思う。ぼくはてっきり、明日ポレポレ坐に行けると思うので、大声を上げつつ、手術に耐えた。

 手術終了後、不思議なことに「痛み止め」を1錠もくれないのである。翌朝、余りの右足の痛さに体全体が動かないのである。日、月と2日辛抱したが、雑菌がますます繁殖し、右足上肢まで傷んできた。明らかに殺菌処分を怠った手術ミスである。

 火曜日(29日)、たまたま手が空いたかみさんにお願いし、練馬光が丘病院にまで付き添ってもらった。形成外科の副院長に見てもらい、緊急入院になった。今度の副院長は、いかにも田舎の老医者といった感じで、好印象を持った。やはり、ゆっくりとしゃべり、患者の疑問に答えないと、患者は不信感を持つ。残念ながら、日大病院から出向した医師は説明不足―痛み止めを何故、渡さなかったかーが多すぎた。

 当初は日大から派遣された医師を「医療ミス―雑菌処分の手抜き」で告訴するつもりで、弁護士と打ち合わせしょうとも考えていたが、いとも簡単に担当医師が自分のミスを認めたので、矛を収めた。医療裁判の大変さを聞かされているので、老後これにかかりっきりになるのは、できれば避けたい。「山谷さんの足の完治には、時間がかかりますが、ぼくが全責任を負います」という担当医師の言葉を信じたいが…。

 1月29日から2月5日まで、練馬光が丘病院に入院していた。毎夕、踵の患部に軟膏を塗ることを繰り返すだけだったが、微妙に痛みが薄らいできた。今から振り返って、一番効果があったのは理学療法士たちのリハビリである。ずっとベッドの中だと、体を使うことも少ないし、何よりも痛みが走る右足を使うことはほぼない。ますます萎える。

 そこで理学療法士が右足の痛みをだまし、だまし、廃用足に近づきつつある右足を強引に動かすのである。初めは予想以上の激痛に唸り声をあげるのだが、何回も右足を使うことで歩けるようになる。薬を多用するよりも、ぼくはリハビリを痛いけど、歯を食いしばって耐えることを薦める。退院後の2月6日から、自分一人で動けるようになったのは、練馬光が丘のリハビリスタッフ(熊谷高校卒の優秀なPT、それにPHDにチヤレンジしている稀有なPT)+自宅近くのリハビリ練習所の「ド板橋」と綽名があるリハビリ科長(40代女性)のおかげである。

 もう一つ、良かったのは、食事がすこぶる美味しかった事である。特に、みそ汁の「だし」の取り方に感服した。おそらく「茅乃舎」のだしや、化学調味料を使わず、小魚、昆布だけで「だし」を取っているのだろう。これで3食1200円弱は安すぎる。

 最後に看護師のことに触れたい。残念ながら慶応病院、JR病院の看護師たちに比べると、レベルは一段下である。やはり、「田舎の老朽化した病院」のイメージから抜け出していない。各看護学校卒の「混成軍」だから仕方がない面があるが、一部の看護師の言葉使いが「ぞんざい」で、どう答えてよいのか、戸惑うことが多かった。特に京都から来たという看護師は、話を聞いていて、何故看護師をやっているのか、よく解からなかった。

 士長に抗議したところ、「文句を言うとやめていく子が多いんです。耐えてください」と諭される。しかし、特筆すべき看護師も中にはいるのである。一人は三十路が近いのに、まだボーイフレンドが結婚の気配も出さず、いらいらしている。でもそれにも関わらず、患者のリクエストにこまめに応えている「子豚ちゃん」。彼女が病室に顔を出すだけで、病室全体が、急に明るくなる。まさに「光が丘病院」の太陽である。

 また、人手不足の自治医大グループの病院を流れ流れ、かなりのお年の看護師にはお世話になった。1週間近く、病院にいると、無性に髪を洗いたくなる。多くの看護師にお願いするが「忙しい」「手が空いたら」と素っ気ない。でも、この老看護師だけだった。丁寧に髪を洗い、リンスまでかけてくれたのは!

 なんだ、かんだとあったが、練馬光が丘病院の綜合点は7である。まず、設備の狭小さ、古臭さ、不潔さはJR病院、慶応大学病院には見劣りがする。医師の質は副院長は別にして、Bクラスである。もっと、説明責任を果たしてほしい。その反面、調理、リハビリスタッフはAクラスである。
 問題は看護スタッフである。「子豚ちゃん」「流れ者の老看護師」にはAを出したいが、全体から見るとBである。

 これから練馬光が丘病院に通院、入院される人は、口コミやこのようなブログを参考にされたほうが良い。後で後悔しないために・・・。 

2019年2月 6日 (水)

突然、襲い掛かった二大災難ーお互い「判断ミス」に気をつけよう。

 すみません、時間が取れず、ブログが書けなくて。こんな小さなブログだけど、10年も書き続けていると、フアンが固定化し、毎週、必ず月曜の朝(このブログが更新される日)に、こんな駄文を心待ちにするご同輩が多い。意外にそんな人たちに支えられ、ぼくの本や映画、とりわけ『沖縄のハルモニ』の満員御礼が、渋谷アップリンクで5回も続いているのだろうと思う。

 今回も1月27日(月)には、東洋大学立看に竹中平蔵教授の「学商」ぶりを真正面から批判した学部学生一名を、東洋大学が退学させようとした動きをみんなに知らせようとする予定だった。でも、緊急入院のため、書けなかった。
 京大や早大だったら日常茶飯事で、とりたてて珍しいことではない。ただ、ぼくが驚いたことは、中堅私大として多くの場合、話題にさえ出ない地味な東洋大学の学部学生が、たった一人で母校の「闇の帝王」として、睨みを利かせている竹中平蔵を名指しで立看に悪行を並べ立てたことだ。よほど、勇気のある若者である。

 竹中平蔵に関しては、ぼくも「脱税」で調べたことがある。1月1日に日本にいなければ、住民税はかからないことを利用している噂が絶えない人だった。小泉内閣の財政指導の張本人がこんな疑惑の当事者であっていいのか?とにかく、胡散臭い人の印象は拭えない。

 経済学の主流である東大系の学者たちは、傍流の一ツ橋卒の竹中をどう見ているのだろうか?東洋大学の学部学生の必死の呼びかけに、我々市民だけではなく、東大系の経済学者たちも応えるべきだろう。

 「学商」は日本経済新聞で、企業スポンサーの後援でしゃべったことが翌日、紙面に出る。でも、ぼくはいつも「眉唾」で読んでいる。「学商」は競馬の予想屋と似ているところがある。予想が外れても、責任を取らないところである。それと、卑しさである。
 とどのつまり、だまされる人が悪い!

 ついつい問題が多い竹中平蔵の話になったが、実はその前に二大災難が我が家を揺るがした。
 一つは「ノロウイルス」である。かみさんが、23日(水)夕方、パートに行っている老人福祉施設から帰宅したなり、トイレに駆け込み、大量に吐き出し、布団を自分で引いて、横になったまま、ウンともスントも言わず寝込んでしまった。

 気分が快調に向かった翌朝、恐る恐る聞いてみると、施設内で「ノロウイルス菌」を持ったおばあさんに接触したらしい。幸い、すべて吐き出し、体力もあったので、翌日(木)から元気になってきた。
 かみさんの告白を聞き、ぼくは「ゾー」とした。たまたま、かみさんが「ノロウイルス」に関して知識があったから、吐いたもののをことごとく水洗便所で流したから良かったが、、もしその手をしっかりと拭かなかったら、完全殺菌しなければ、ぼくや息子は二次感染で24日には救急車に乗せられていたことだろう。

 辛うじて、第一の難局「ノロウイルス」は乗り切ったが、次の日(25日金曜日)大事件が起こった。この日は午後、練馬光が丘病院(自治医大系、元は練馬日大病院)で、形成外科で踵の腫瘍を切ってもらうことになっていた。26日(土)は新人監督のデビュー作を12時半に東中野ポレポレ坐で見ることになっていたので、多少痛くとも25日(金)には患部にメスを入れてもらうようにお願いしていた。

 「26日ポレポレ坐へ行けますね」と念を押し、糖尿が主因である潰瘍切除の手術に臨んだが、切開手術が麻酔の量、時間の不足で、とにかく痛い、痛いというものではない、激痛である。71年間生きているが、これほどの悲鳴を上げたことはない。慶応大学で「心臓バイパス大手術」を6年前受けたが、これほど痛くはなかった。2Fに形成外科があり、満員の患者があふれていたが、ぼくの「痛い、痛い、痛い」の絶叫にみんなたまげたと思う。

 ぼくはもともと、映画監督で、声量は衰えたといえど普通の人の2倍はある。我慢すれば、翌日は東中野ポレポレ坐で新人監督の映画が見れるのだ、と言って聞かし、何とか腫瘍切開手術をを泣きながら終わらした。

 問題は翌日(26日)翌朝だった。手術中、右足に雑菌が入ったらしく、痛みが急激にまし、突然、一歩も歩けない状況だった。当然、上映会出席は無理。楽しみにしていた新人監督や、誘っていた同期、教え子たちに事情を話し、謝った。「話が違う、これは明らかに主術ミスだし、担当医師は雑菌を入れた責任をどうとるのか」と26~28日と3日間、自宅で痛みのため横になった状態で考えていた。

 自宅で激痛に耐え、ベッドにいた3日間はつらかった。29日(火)午前、時間的に余裕のあるかみさんに付き合ってもらって、再度練馬光が丘病院に行き、副院長で形成外科医の診断を仰いだ。即、入院である。ぼくは日大病院から出向している執刀医が正式に謝らないと、「医療裁判」にして良い、と明言した。「医療裁判」は面倒だし、手間暇かかるが、今回は雑菌処理を手を抜いた担当医の責任が問われるだろう。そして、ぼくの勝訴に終わる可能性が強いと踏んだ。少なくとも、日大病院と派遣されてきた担当医は各メデァ、及び判例で死ぬまでこの事例を負っていかねばならないだろう。

 意外に意外、日大から派遣された担当医が率直にミスを認め、ぼくに謝罪するではないか!こちらは長期の裁判を予定していたが、こうもあっさりと謝られると、矛を収めるしかない。
 ぼくの右足の踵の潰瘍手術失敗の責任は担当医師がとる。すくなくとも、右足でも歩けるようにする。そのため、ぼくの宿弊である糖尿病を改善するようにぼくも気を付ける。健常者の少なくとも2倍以上は完治に向けて時間がかかるが、この派遣医と二人三脚で長距離レースを走るしかない。

 2月5日、何とか練馬光が丘病院を退院した。2月8日(金)に『坐・高円寺―戦争とドキュメンタリー』に映画『沖縄のハルモニ』上映と、編集を担当した安岡卓治くんとの対談が待っている。また、一方的に「安岡ラッパが高らかに鳴り響き、多くのお客さんはどっちが監督だ?と疑うが、やはり安岡君のビジョンにはぼくも一歩下がる。
 面白いトークになると思う…。 

2019年1月22日 (火)

「坐・高円寺」で面白い企画をやっているー何故原一男が来なくて、長谷川和彦が出てくるんだ?

 2月6日~2月11日まで、「坐・高円寺」で「第10回記念特集 ドキュメンタリーフェスティバル」が行われる。テーマは「戦争とドキュメンタリー」である。杉並区等が支援しており、予算も潤沢である。だから「東京裁判」83年小林正樹監督、「戦ふ兵隊」39年亀井文雄監督、「未帰還兵を追ってータイ編+マレー編」71年今村昌平監督等の豪華作品を並べられたのだろう。

 ぼくの『沖縄のハルモニ』79年も呼ばれて、2月8日に大監督たちの末席を汚すようになった。ただ、気になったのは主役がいないのである。主役とは原一男(73)であり、86年に監督した「ゆきゆきて神軍」は、日本映画史上に残る傑作である。客も押し掛け、一時はあまりの超満員のため、劇場に入れなかった。

 人間的にはコンプレックスの塊で、高卒を押し隠し、すぐ難しい話ばかりするので、ぼくは敬遠していた。でも初期に作った「極私的エロス」(74)はそれ以後の日本ドキュメンタリー界の流れを激変させた程の問題作である。

 近年、劇映画を作ったり、様々な補助金を引き出し、反公害の映画を作って、興行で惨敗しているが、73歳で「焼きが回っても」、まだまだ駄作を作り続けるところが「えらい」とぼくは評価する。
 映画がつまらなくなるのに並行し、講演ががぜん、面白くなり、「原流講談」としても食っていけるほどだと、ある映画祭でずっと審査員を共にやっていて実感した。

 そんなスターが不在で、代わりに何故か「ドキュメンタリーフェスティバル」に関係ないのに、ゲストとして顔を出すのが、2本映画を監督した後、スタッフに拒否され、まったく映画が撮れなくなった長谷川和彦である。「青春の殺人者」「太陽を盗んだ男」と立て続けに2本出した後に増長し、周りのスタッフから総すかんを食っている。

 ぼくも今村監督の「神々の深き欲望」で現場を一緒にしたが、今村プロの社員だと威張り、本当に嫌な男だった。でも、劇の現場はぼくの専門外である。だから、黙って、黙々と下働きをしていた。しかし、高円寺はぼくの「縄張り」である。零落した長谷川には好きなことをやらせない。

 原一男と長谷川和彦とは同い年である。一方は高卒で、最底辺のピンク映画の撮影助手から一歩一歩のし上がつた男、もう一方は東大を中退し、今村プロ社員として超エリートとして飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ぼくは「生意気だと」どれだけ、殴られたかしれない。

 しかし、あれから半世紀、高卒、ピンク映画と馬鹿にされてきた原一男が「極私的エロス」「ゆきゆきて神軍」を残し、巨額な責務を担いながらも、まだ水俣を撮影しょうとする「志」をぼくは買う。ぼくも沖縄で「早稲田のくせに生意気な」と呼び出され、殴られたが、今回上映する『沖縄のハルモニ』と岩波現代文庫版「じゃぱゆきさん」を残している。それに、原一男に刺激されて、「虎さんの『恋活』体験記」を書きおろそうとしている。二人とも古希を超えても、まだまだ現役である。

 ドキュメンタリーの世界は、どんな老兵でも「働かざる者、食うべからず」なのだ。女のヒモで、その後、一作も作れないような「腰巻被り」「ええかっこしい」が来るところではない!

2019年1月13日 (日)

古希を超えたのに、何故こんなに忙しいの?ー「セウォル号事件」公開

 もうだめか、次の仕事に移ろうと覚悟していた企画が、2本、立て続けに通った。一つは『沖縄のハルモニ』の第六回目の上映である。どこからか客が集まり、第五回目も早めに「満員御礼」の札を入り口に出したという実績を買われたようだ。二つ目は『ダイビング・ベルーセウォル号の真実』という2014年に起こった旅客船が韓国全羅道で沈没し、修学旅行中の高校生たち300人余りが水死した事件を追った記録が、都内で最初に公開されることになった。

 船長たちは沈没しているのに、高校生たちに「待機しなさい」と放送し、自分たちだけが制服を脱ぎ捨て、救命ボートに乗り移り、当局に保護されている。事故の原因は不法な過積載による重量オーバー、運転の困難な海域に船長が席を離れ、経験未熟な三等航海士が舵を握ったこと等が挙げられている。そもそも、航海当日は視界良好、航海の安全に影響する自然条件ではなかった。

 ぼくは「セウォル号事件」は韓国社会を理解する一つの重要な事件だと思っている。「人が何を言おうが、自分さえ、善ければよい」という理解不可能なエゴイストぶりがこれほどあからさまに出ている事象は珍しい。日本でさえ、船長自ら制服を脱ぎ捨て、自分だけ助かるという事実を寡聞にして聞いたことがない。客の高校生は「待機しなさい」という命令を素直に服従し、水死しているのに…。

 2016年に「横浜ジャック&ベティ」で短期間上映されたが、宣伝不足で打ち切られている。ただ、共同監督のアン・ヘリョンが異様に熱心に「ダイビング・ベル」の売り込みをする。アン監督には『沖縄のハルモニ』の韓国上映を手伝ってもらっているので、無下に断るわけにはいかない。多忙なのだが、無理やり時間を作り、自宅で見た。

 それが意外に(失礼!)面白いのである。イ・サンホというMBC(韓国の第二NHK)を政治的な理由で解雇された名物記者が前面に出ていて、ときには高校生たちの最後を思い出し、
泣き出す。日本では、TVニュース、いや自主記録映画でさえも、これほど感情をあらわにする主人公はいない。

 早速、アップリンク渋谷の上映企画者に連絡する。「面白いよ、1週間引っ張るのは無理だけど、1日だったら満員(58人)になる可能性があるよ、とにかく見てみてよ」と推薦し,アン監督から預かったDVDを送っておいた。それが、アップリンクでは12月に吉祥寺に新劇場をオープンすることになり、敏腕の企画担当者は忙殺されることになり、3ヵ月くらい反応が聞けなかった。

「『ダメなら、ダメ』とはっきり言ってくれれば、そのままソウルのアンさんに転送するから」、と念を押したにもかかわらず、返事は遅かった。それが、「やることに意義があります。ただし、著作権等、様々なトラブルが予想されるので、山谷さんがけつを拭くんだったらやりましょう」と、条件付きOKが出た。上映担当者も超多忙の中、これだけの条件を上から引き出したのは大変だったろう。

 とにかく、3月23日(土)に午後『沖縄のハルモニ』の後に、条件付きだが、『ダイビングベル』は上映が内定した。ぼくはじぶんが『ダイビング・ベル』の配給をやるとは思っていなかった。アンさんが来日し、著作・配給関係をクリアーし、自分で日本のメデァに売り込めば良いと思っている。しかし、3年前に横浜の小映画館で不入りの事実がある。それで、アップリンクとして、売り込んだぼくが戦略を立て、当日58の席を満杯にしてほしいのだろう。

 その旨、ソウルのアンさんにメールし、こんな悪条件だが、本当にやりたいのか、確認した。58の席のうち、18くらいはぼくの友人、知人で埋まる可能性がある。しかし、残りの40人の客は自分が連れてこなければならない。大変な割には、見返りは少ない。興収の半分はアップリンクが取り、あと25%は3000枚のビラを作ったり、撒いたりするぼくが取り、安さんは残った25%しか手元に来ない。有料試写会と割り切らないと、ばかばかしくてやっておれない。

 でも、敗者復活戦で、たまたまアップリンクの上映企画者と、ぼくが乗り、いったんは忘れられた『ダイビング・ベル』が陽の目を見た。ここで安さんが死ぬ思いで、客を40人入れねば、もう日本の映画館から相手にされないだろう。しかし、有料試写会で40人入れたら、東京のみならず、日本各地の小映画館からオファが来るだろう。

 『ダイビング・ベル』と安さんの保証人は古希を超えたぼくである。その他、秩父の俳人の「句集」を死んでいった友人の縁で、ぼくが編集者を紹介することになった。

 もう一つ、無名の歌人の映画がいよいよ再撮影に入る。構成書は良い。思わず、泣きそうになった。制作追加資金も120万円集まった。後は主演に予定しているタレントのOKが取れるか、どうかだ…。

 なんや,かんやで毎日、慌ただしく過ごしています、でもぼくはもう71歳ですよ!

* 安さんからOKの返事が来た。じっくりと、条件と、客を入れる戦略の話をして、お互い100%納得しなければならない。後のトラブルは嫌だから…。

2019年1月 8日 (火)

ぼくが「サラ金」を憎悪するわけ。

 すみません、ブログが大幅に遅れて…。年末、年始は100枚の年賀状を書くことに追われていました。もう古希を過ぎているから、大幅に減らしても良いんですが、つい同期、後輩、教え子、それに取材で世話になった人達が気になって、本を読む時間を削っても、下手な字で、長々と近況報告しています。

 昨年は親族に不幸が続き、残念だった。一つは、本家の当主(72歳)が長い病気の後、息を引き取った。当主の父(母の弟)も人望のない人で、奥さんがそれに輪をかけて一族を嫌がるので、祖母はほうほうのていで、富山市の本家から高岡市に住んでいた母のところへ、小さなぼくの面倒を見るという理由で逃げ出した。

 祖母は67年に大往生を遂げたが、母に感謝して死んでいった。本家でよほど嫌なことがあったようだ。本家は本家らしいことを放棄し、一族は母を中心に団結していた。台湾総督府の巡査だったぼくの父を「偉そう」と追い出した母のほうがよほど一族に人望があった。

 そんな母に一番なついたのが、浜おばちゃん(母の妹)だった。本家の近くの海岸の傍に一軒家を購入し、旦那は富山市役所消防署へ通勤し、息子が二人できた。おばちゃんも旦那も鷹揚な人で、儀礼的に本家へあいさつに行って、不快な目にあっても、浜おばちゃんの所へ戻ると、祖母もぼくも一息つけた。

 二人の従弟とは兄弟のように付き合っていたが、長男が東京の専門学校を出てから、富山へ戻り、飲食店、特にバーの内装をするようになった。うみせん、やませんの飲み屋の経営者に支払いを伸ばされ、公務員の息子は見る見るうちに資金繰りにいきずまった。
 最初は父、母、次に当時手広く果物屋をやっていた嫁の実家へ「婿」の形で入った弟まで無心し、最後には高岡のおばさん(母の事)にまで借金をお願いしていた。

 母は一言も愚痴をこぼすことなく死んでいったが、かなり金を貸していたと思える。かわいい妹の息子だから、返金を請求しなかったのだろう。それでも、職人たちの日当、材料費等で毎日、毎日資金繰りに追われるが、かんじんのバーの経営者たちは何だ、カンダと理由をつけて、振り込んでくれない。追い込まれた従弟は禁断の「サラ金」に手を出した。85年当時はサラ金規制が甘く、浜おばちゃんの自宅まで朝早くから晩遅くまで、ガラの悪い「サラ金」の「パシリ」たちがドアを叩いたり、大声で騒いだりして、貸した金に法外な利益を上載せして、回収しょうとした。

 従弟は突然、逃げ出した。30年以上も前のことだ。残されたおじさんは家を手放し、富山市役所の退職金(管理職まで昇進し、約3000万円)をサラ金借金の抵当にし、かろうじて乗り切った。おじさんが公務員でなかったら一家で、路頭に迷っていただろう。弟も借金の一部を引き受け、果物屋の次期社長から長距離トラックの運転手に変身した。浜おばちゃんは精神病院の洗濯婦として、高利の利子が積み重なった借金返済を手伝った。

 ぼくはそれをつぶさに見てきた。ぼくが「サラ金」を心の底から憎むのは、浜おばちゃん一家が崩壊寸前のところまでいった事実を見ているからだ。ぼくが一貫して「みずほ銀行」しか相手にしないのは、この銀行が少なくとも表面上は「サラ金」と一線を画しているからである。
 住友銀行が「サラ金」を子会社化することは、住友銀行という体質を考えると、さしたる違和感はない。そもそも東京には似つかわしくない「下品な銀行」だからである。詳しくはバブル時代の住友銀行の「イケイケ、ドンドン」を思い出してもらいたい。

 しかし三菱銀行が「サラ金」を子会社にしたことは、がっかりした。確かに「サラ金」のほうが、本業である銀行業務より遥かに利益が上がる。しかし、「銀行中の銀行」である三菱銀行がそこまでして利益を追求したいか?
 予言しょう。近い将来、必ず「成熟した市民社会」から「サラ金」からも利益を上げて、【下品】だということで、追放されるから…。

 新年、従弟(弟)に電話で連絡した。「本家が死んだという葉書が来たよ」と伝えると、「哲っちゃん(僕の事)、ぼくの所へは何もないよ、ただ兄貴が名古屋で死んだということを市役所から去年連絡があったよ。骨壺はまだ名古屋の市役所だよ」

 まず、本家の当主が困窮の中で死亡した。それは本人の「身から出たサビ」で,ぼくを初めとして一族の誰もが彼を援助しなかった。住むところがだんだん落ちぶれていったことから貧窮ぶりが伝わる。。
 次に、従弟がサラ金に追われて、30年以上も実家と連絡を絶ち、おそらく行路旅行死亡人、もしくは生活保護受給者として未だ60歳代で孤独死している。

 従弟だったら、電話で相談があったら、都立大で社会福祉を学んでいるから「福祉ネットワーク」につなげられたのに。従弟は「サラ金」に追われた体験が「トラウマ」のように残っていて、父や母、弟に死ぬまで連絡できなかったのだろう。

 時たま、「サラ金」の派手な看板を見る。そうするとどうしても野垂れ死していった人の好い太った従弟と、看板の背後にある住友銀行、特に三菱銀行に唾を吐きかけたくなる…。

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