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2022年6月10日 (金)

「越中源氏」-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン①

 恥ずかしい話、ボクはこれまで7回婚約し、そのうち結婚まで漕ぎ着けたのは2回だけである。結果的には二勝五敗になる。
 第一回目の婚約は学生時代同じゼミの「ツンでれ和子」である。これはボクが一~二年前にポン女の学生と、西武新宿線上井草駅近くの下宿で合体したことを書いた古い日記を和子が見つけ、それで結婚寸前までいっていたのが、突然の破談となった。
 第二回目は、ミス中大どころか、ミス東京といった美女と大学卒業後、婚約したが、映画『みやこ』を沖縄で撮影中、婚約破棄された。今迄、ラブラブの手紙が毎日、届いていたが、急に来なくなり、戸惑った。幸か不幸か、録音機材が故障し、カメラマンを水納島に残したまま、ボク一人が帰京し、ソニーに新品と変えてもらった。その時に「全共闘-解放の女神」と、横浜で会って真意を確認したが、やはり婚約解消の一点張り。「夢追い人」の貧乏さに気づいたようだ。ホテルで殺意が沸き上がってきたが、水納島で一人待っているカメラマンの事を思い出し、踏みとどまった。
 第三回目は、同時期に早稲田を卒業した「日記を食う洋子」である。初めて、婚約から結婚までたどり着いた。梨園とも関わる美貌だったが、とにかく「はげしい人」だった。フランス映画社の過激な組合員で、フエミニズムのリーダーでもあった。ボクはべたぼれで「愛の奴隷」だった。でも、さすが郷里(富山県高岡市)の駅の待合室で、つまらない事で土下座を強要されたり、『沖縄のハルモニ』を撮影中、三鷹のアパートへ男を連れ込んだことが日記で判明すると、堪忍袋の緒が切れた。それから離婚に至るまでの約四年間は我が人生の中で最大の屈辱である。思い出すたびに顔から火が出るほどである。
 第四回目はボクが拾ってもらったようで、未だにかみさん(再婚相手)には頭が上がらない。ずっとNGO(日本ボランティアセンター)でカンボジア難民救援等を担当してきた人である。80年にバンコク東京銀行支店で偶然、ぶつかった相手でまだ27歳の若さである。Tシャツ姿で、若さでぴちぴちし、余りのまぶしさに目を泳がせたほどである。洋子と離婚後、暴飲暴食、荒淫が続き、倒れ、3か月もリハビリ病院に入院するくらいだった。「逃げ水のお京」以下、ガールフレンド全員、さっさと見限り、ボクが後遺症を抱え、これからどう生きていこうか、悩んでいた時、唯一手を差し伸べてくれたのが「お釈迦様の手の中で」秀子だった。それから36年、ボクが生き残れたのはひとえに秀子の健康管理のおかげである。

 第五の婚約者は雑誌等のフリーランスのライターをやっていた恭子である。ボクの娘の母である。てっきり、子供が出来たから結婚するものだと思っていたが、余りにもこちらの財布ばかり当てにされ、珍しくボクの方から婚約を辞退した。
 第六の婚約者は大阪でピアノを習っていた佳子である。たまたま、地元でジャズ喫茶の前を通りかかると、ちょうど自宅に帰る佳子と出会った。感じの良い子だったので近くの喫茶店で話し込んだ。こっちも前のかみさんと別れたばかりで、時間があったので、佳子が京都でまた会いたいと電話で切望するので、京都まで新幹線に乗った。東京行きの最終時間までおしゃべりをして、駅のプラットフオームでサヨウナラをしょうとしたところ、佳子が別れたくないと、ボクを列車から引きずり下ろす。それからが大変で、佳子の寮にボクが電話をし、外泊許可をもらい、また「全共闘-解放の女神」恵子と同じように祇園のラブホテルへ行った。恵子と違うのは、佳子が処女だったことだ。肌が滑らかで,張りがあった。1~2年、付き合ったが、そのうち連絡が来なくなった。向こうも結婚の事を考え、「夢追い人」との貧乏な生活に見切りをつけたようだ。
 最後の第七の婚約者ミシエルについて触れたい。75年に文化庁在外研修生として、パリで生活していた時のことだ。たまたまパリ大学の講堂で映画『みやこ』を上映してくれることになり、40~50人の客が来てくれた。その時の客の一人がミシエルだった。身長165センチ、体重60キロ、オッパイの大きな女性だった。ボクが27歳、ミシエルが25歳。映画が終わってからもミシエルは残ってくれ、二人だけで話すことになる。ミシエルはユネスコの非常勤の職員だったが、英語がまだ完全ではなく、ボクが英語を喋り、ミシエルがフランス語でそれに答える形をとった。翌日、『アラビアのローレンス』を見に行ったが、こちらは映画どころではなく、暗闇の中でミシエルの手を握ったり、左の耳に息をかける等、もぞもぞ動いていた。そのうち、ミシエルのアパートに移り、合体。「チュ フエ マル」(いたずらしないで)の乱発で、日本女性にはない重量感に圧倒された。
 ボクのフランス語はパリ大学付属語学学校で学んだより、ずっと多くのものをミシエルのベッドで学んでいる。帰国してミシエルを日本に読んだが、とうとう来日しなかった。日本での生活に不安を覚えたのだろう。

 七人の婚約者のことはよく覚えている。
 それに最近深く知りあうことになった「全身クラリネット」明子、「美しいがゆえに」百合子も、生々しく思い出せる。とりわけ、明子は「多情仏心」でさんざん引っ張り廻されたが、彼女が火を付けねば、この本、『越中源氏-女たちの深き欲望』は出来なかった。それだけ女体も心も魅力的な人だった。一方、100人近く、この半世紀で関わってきた女性のあらかたは良く覚えていない。記憶をたたき起こし、一人ずつ、確認するけど、大方は厚いベールに覆われたままである。そこで、無理やり記憶の奈落から引っ張り出し、書いていきたい。

 ボクの最初の女性体験は、「復帰前」68の沖縄である。沖縄に行ってショックを受けた友人から、「
ぜひ行ってこい」と強く勧められ、大学1年の春休み、パスポートを持って2泊3日の船旅で那覇に着いた。琉球大学の寮に泊まり、国際通りの裏町を歩ていると、色の浅黒い子供たちが列をなしてボクについてくる。色の白い東京の学生というのは68年の沖縄では珍しかった。そのうち、ヤンキーみたいな少女に話しかけられ、1時間後にまたこの横丁で会うことになる。約束の時間に行ってみると、まだ高校生みたいな少女が一人、ボクを待っているではないか!
 彼女に引っ張られ、近くにあるラブホテルに入る。ホテル代は前もって払ってあるようで、少女がもじもじ服を脱ぐ。どうも東京からの色白の大学生と合体したいようだ。浅黒で、白の木綿のパンティがやけに目立つ。ブラジャーはAカップで「微乳」と言ってよいぐらいである。しかっし、性欲は人一倍あるようで、挿入をねだる。でも、その頃はまだ童貞だったので、射精すれば間違いなく、妊娠すると信じていたので、チュしたり、お互い裸のまんまで「男性自身」「女性自身」を弄ぶだけであった。「微乳」は触るだけで反応があり、口で乳首を引っ張ると「ウゥ」とくぐもった声が漏れるだけであった。結局、朝の8時までお互いの体を弄っていただけである。
 沖縄の少女たちの積極性に魂消た。まだ15歳だぜ。琉大寮にフラフラで帰り、夜迄爆睡した。


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