« 越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン③ | トップページ | 越中源氏ー「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン⑤   »

2022年6月13日 (月)

越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン④

 そのうち、フランス語の研修のため、パリに移った。75年9~11月のことである。3か月の短期集中コースを選び、パリ大学付属語学学校へ通った。でも、授業料は高かった。
 ロンドンでは高校を出て英国に来て、安い公立英語学校で学ぶ真面目な、若い女性が多かったが、パリではフランス語を学ぶというよりも、フランス文化の雰囲気に浸りたいという日本人ギャルが多いように感じた。だから映画好き、シャンソン好きで、華やかで、軽い雰囲気の女性たちが主流である。
 その中で、パリ大付属は大学を出てからフランスへ来た22~23歳の女性が目立った。大学で第二外国語として、フランス語の基礎を終えている。今でも覚えている限りでは慶応、同志社等のOGたちである。上品ではあるが、堅っ苦しいお嬢様たちである。遊び好きなギャルたちとは一線を画していた。でもボクとはあまり縁がなかった。ボクが関係したのは、日本映画クラブの人たちである。

 パリ大学の講堂で『仁義なき戦い』(深作欣二監督 1973)など東映ヤクザ映画が多く、熱心なフアンを掴んでいた。ここでクラブを手伝っていた日本女性と知り合い、簡単に「合体」。ロンドン以上に手間暇がかからない。そもそも、そういう女性たちがパリに流れているんだろう。釣り堀に座って、竿を垂れるだけで次から次へと、若い、華やかな女性たちが引っかかってくる。70年代は黒澤明がまだ現役だったし、大島渚、今村昌平たちが『儀式』『復讐するは我にあり』と言った問題作を出していた時期である。映画監督がまだまだ尊敬されていた時代である。その余光で、ボクのような駆け出しのB級監督ですら過大評価されていた。だから日替わりでガールフレンドを変え、忙しかったけど、楽しかった。

 そこでミシエルと出会ったのだ。
 帰国後、ミシエルに手紙を出したのだが、初めのうちは返事が来ていた。しかし、次第に手紙が遅れ、ついにはまったく来なくなった。ミシエルは来日のリスクを考えたのであろう。
 帰国して映像の業界で、徹底的に干され、仕方がないので、雑誌に原稿を出していた。そこで「日記を食う洋子」と出会ったのだ。前にも書いたとおり、洋子は映画作品『うりならマンセイ』(77年)のプロデューサーをかって出てくれ、『沖縄のハルモニ』(79年)を製作半ばまで支援してくれた恩人である。ボクが現在、「監督」として末席に連なることが出来るのは、ひとえに洋子のおかげである。その反面、高岡駅で土下座させられたり、『沖縄のハルモニ』を沖縄で撮影中にオトコをアパートに引っ張り込んだことや、離婚後雑誌「クロワッサン」に、あれだけお互いの悪口を公表しない事を家庭裁判所調停委員の前で誓ったのにも関わらず、一方的に洗いざらいぶちまけ、そのショックで生まれて初めて、自殺を試みた。とにかく「はげしいひと」である。その後遺症で現在まで苦しんでいる。

 洋子と離婚し、「愛の呪縛」から解き放たれ、ご乱行が続いた。身長170センチ、体重62キロ、さして取り柄がない「ブサ面」のボクだが、作品だけは残した。映画『沖縄のハルモニ』、書下ろし『じゃぱゆきさん』(85年 情報センター出版局、後に講談社文庫、岩波現代文庫)がヒットし、未だに生活を支えている。これを見たり、読んだりした人は勝手に想像力を膨らましている。でも、会ってみるとがっかりする人が多い。余りにも生活が保守的(救世軍のバザーで市価の1割で買う英国製のコート、ジャケットを少なくとも20年以上使う)で、喋ることはほぼ朝日新聞の社説のカーボンコピーだからである。
 にも拘わらず、女性たちと合体することが多かった。女の人たちの深き欲望を満足させる、何かがあるのだろう。
 古希になっても、まだまだ「夢追い人」の雰囲気が残っている。新作の事を夢一杯、滔々と語るのである。語る時は相手の目を直視し、ずっと外さない。女性たちの中には、『私のことを愛している』と錯覚する人が稀には出てくる。彼女が胸の中で夢見ている「白馬の王子様」に一刻、ボクが化けるのである。

« 越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン③ | トップページ | 越中源氏ー「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン⑤   »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン③ | トップページ | 越中源氏ー「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン⑤   »