2022年8月23日 (火)

もし、人生に「IF」があったなら・・・

 半年近くずっと自宅に閉じこもって、自伝「越中源氏-女たちの深き欲望」を書いている。75年も生きていれば、いろんなことがある。ボクの場合、特に女性に大きく左右されている。大学卒業前後、若くて、無名で、貧しい「夢追い人」は、女性に助けられ、映画を連作できた。とりわけ、第二作『みやこ』は「全共闘-解放の女神」恵子の存在、資金援助なくては完成まで漕ぎ着けれなかった。

 恵子は抜群の美女で、大学に入る前まで、学年誌の表紙モデルをやっていたほどである。でも、その「冒険」も母が反対し、途中で辞めている。
 中高一貫制の吉祥女子学園を出てから、早稲田文学部を2回受け、2回とも落ちている。1回目はボクも受験しているので、競争相手だったようだ。毎年、吉祥女子学園から100名前後、早大に受かっているから、どうも恵子は試験が苦手なようだ。
 第二志望の中大文学部へ潜り込んだ恵子がまずやったことは学生運動に参加することだった。68年10月21日、「国際反戦DAY」では、丸太ん棒をもって、防衛庁(現在は省)正門へ突っ込んだ。恵子の父が幹部をしている所である。父への反発が当然あった。待ち構えていた機動隊の放水車に冷水を浴び、そのうち着ているものが剥ぎ取られても、最前線で一年生が踏ん張っている。フランス革命を記念した絵画に出ている様な半裸の美女がみんなを率い、突入しょうととしたところで、政府が戒厳令を出し、恵子は最初に逮捕されている。

 いざ逮捕されて警察に連行され、取調官がまず驚いたのは恵子の父の職業であった。二番目は生傷だらけだった恵子の容姿にまた目を見張った。美しい。
 恵子は付き合っていた時、全共闘、特に小菅拘置所の話はあまりしたがらなかった。もう、学生運動は終わったことだった。代わりにのめりこんだのは「宝石」だった。学生の頃から宝石商見習いをやり、確実にお得意を増やしていった。ボクへの資金援助も宝石商で稼いだお金である。宝石とともに力を入れたのが、詩誌を出すことだった。恵子は実は詩人でもあったのだ。
 詩誌販売の相談で初めて会ったのだが、初め、ボクは気が乗らなかった。中大生のイメージは、六法全書を分厚い眼鏡で、一生懸命読み込んでいる「ガリ勉」であって、恵子もその延長か、と怖気を感じていた。それが、それが生まれて初めて見るような美女だったのだ。
 こちらが上がって、ついつい電話番号を聞きそびれてしまった。ブサメンのボクにとって、恵子は「天上の華」だった。どう連絡していいのか、判らず、一人下宿で悶々としていたところに、恵子から電話があった。うれしい。

 結局、電話をしている間に、二人で年末に京都に行こうという話になった。会って2度目に祇園のホテルで合体。結婚しょうと言う話になった。3月に沖縄で新作のロケが始まる。級友の赤岩が撮影を担当してくれることも決まっていた。ここで、ボクが映画の話をキャンセルし、話が来ていた多摩芸術学園(現 多摩美術大学に吸収)助手の話を受けていれば、大学を出たばかりの恵子と3月に結婚できたのだが…。
 しかし、ボクは恵子ではなく、沖縄で新作を取ることを選んだ。せめて、撮影が終わるまで、恵子はボクを待ってくれるものだ、という予定だったが。確かに一月は毎日のように手紙が来た。しかし、4月に入ってからぴったりと来なくなった。沖縄から電話しても、電話音が空しく鳴り響くだけ。そして、5月に入ってから、婚約破棄の手紙がロケ地、宮古諸島・水納島に配達された。

 何のためにペアの婚約指輪をわざわざ作らせたのだ!
 1か月しか、恵子は持たなかった。常に甘え、拗ね、泣く相手がいないと、恵子は不安になるのだ。あれほど狂ったようにボクを求め、痴態を晒した恵子だが、やはりボクの不在は決定的だったようだ。

 人生に「IF」は禁句である。しかし、恵子のことを時たま思い出すと、沖縄に行かず、多摩美術大でブニュエルやケン・ラッセル、それにベルギーの美術監督アンリ・ストルクを学生たちに教えていた方が良かったかな、とも思う。
 軽井沢で結婚式を挙げ、阿佐ヶ谷の善福寺公園近くの小洒落たアパートで恵子と暮らしていた方が幸せだったかも…。

 恵子とは結婚できなかったが、これほどの美女-北川景子にウリ二つーに狂ったように惚れられ、「男冥利」に尽きる。


2022年7月25日 (月)

近況報告②ーとにかくヤッテみょうよ!

 ずっと自宅で己の恥多き人生を振り返っている。人生の転機は68年に今村昌平監督『神々の深き欲望』(日活)に夏休みに参加したことだろう。
 長岡高専から67年に早稲田大学文学部に転学したことも、大きな転機だったが、映画の現場で多くの役者やスタッフにもまれたことも、それからの人生を決める契機となった。現場は役者、現場スタッフがぶつかる主戦場であった。特に三国連太郎は芝居の世界を通り越し、神懸っていて、これが役者かと、撮影現場で驚いたことも事実である

 そんな癖のある役者やスタッフ約40名を引き連れ、少ない予算の中で、1本の映画を生み出す今村さんの力も普通ではなかった。撮影後半、製作資金が底を尽き、全員1日1ドルだけを貰って生活していた。もちろん、役者もスタッフもみんなブウブウ文句を言っていたが、そこを今村さんはねじ伏せ、とにかく封切り日に間に合わせた。全員文句があるのは1日1ドルの生活費だけではなかった。今村さんと主演沖山秀子が夜な夜なSEXをしていたからである。

 当時、石垣市の女郎屋ではチョンの間(1回限りの射精)で3ドル50セント(1260円)。1ドルでは相手にもされない。B級役者や照明部、制作部の若い衆の不満が日々溜まっていくわけである。団交まで行きかけたが、それを止めたのが殿山泰二というベテラン役者だった。近代映協で新藤兼人と「裸の島」という低予算で映画を作ってきた殿山は自分の貧困な体験を詳らかにし、若手を説得した。

 殿山の説得もあり、撮影中止だけは何とか免れた。映画もようやく、完成した。でも、責任者今村さんとしてはつらい現場だったと思う。以後、『復讐するは我にあり』(75 松竹)まで、7年以上も劇映画を手掛けていない。
 1本の劇映画を完成させるには、長期間の時間拘束、多くの役者、現場スタッフ等の人手が必要なのである。それを束ねられるのは、今村さんみたいなカリスマ以外、不可能だろうと思う。

 ボクのような非力、軟弱な男には、劇映画を作ることは無理なことである。でも、同じ映画でも、ドキュメンタリーだったら監督と撮影、二人いれば最低限作れる。予算も10分の1以下で出来る。ちょうどその頃、小川伸介監督「三里塚」シリーズ、土本典昭監督「水俣」が公開され、今まで問題にもされなかったドキュメンタリーがにわかに脚光を浴びるようなった。ボクはその波に乗って、ささやかに71年「生きる―沖縄渡嘉敷島・集団自決から25年」でデビューした。まだ大学4年生の時だった。

 封切り日は18人しか、客を呼べなかった。大学を出てから婚約者に資金を出してもらい、沖縄宮古島で撮影した『みやこ』(16ミリ白黒)も、ロバート・フラハテイ「アラン」の影響を受け、自信たっぷりに封切ったのにもかかわらず、興行は惨敗。ボクが5本も監督して、未だに客が呼べるのは、ボロボロの8ミリ映画『沖縄のハルモニー証言・従軍慰安婦』(79)だけである。客は16ミリのクック(英国製)レンズで沖縄の海を鮮明にとらえるシーンよりも、沖縄南部のサトウキビ畑の片隅に隠れるように棲んでいる元朝鮮人慰安婦の方を見たいのである。

 『神々の深き欲望』の時、一緒に汗を掻き、今村さんの無茶な指示に振り回された現場スタッフは、誰一人として監督に昇進していない。先輩であるセカンド助監督武重邦夫さんも劇映画の監督まで行かなかった。また、2年先輩の優秀な兄貴分も、吉田喜重監督『煉獄エロイカ』で助監督に就いた後、業界に見切りをつけ、早々とフランスベッドに就職したらしい。唯一人、長谷川和彦だけは劇映画2本監督し、それなりに評価されたが、傲慢な性格で、現場スタッフから総スカンくっている。二本目を出してから40年以上経っているが、いまだ作れていない。
 むしろ、ドキュメンタリーの分野に今村さんの流れは確実に受け継がれている。一人は『ゆきゆきて神軍』の原一男である。この映画は原案が今村さんである。もう一人がボクである。今村さんのネチッコイ取材方法-『からゆきさん』『未帰還兵の記録』が象徴ーは間違いなく書き下ろし『じゃぱゆきさん』等に影響を与えている。特に被差別部落が、棄民の根底にある、ということをボクは学んでいる。

 20歳の頃、三国連太郎、今村昌平、それに先輩たちに揉まれたことが、ボクのその後の人生を決定した。だから、多くの若者たちに薦めたい。「多少、ヤバいことがあるが、これだ!つて思ったら、賭けてみよう」。

 

2022年7月 3日 (日)

久々、近況を報告します。

 「越中源氏-女たちの深き欲望」デッサンを約3か月ほどかかって書き下ろした。途中、これを書くのに夢中になって他のことは無視。これだけ集中してパソコンの前に座り続けたのは、「東京都セレブ区福祉部」(現代書館 2015)以来、7年ぶりである。体にガタが来て、もうお迎えが近いことは確実である。その前に2点だけは書き残しておきたかった。一つは前のかみさんとの離婚の真相である。雑誌「クロワッサン」等で、彼女は自分の都合の良いことだけを喋っている。当時、その頃(85)、多忙と荒淫のため、脳卒中で倒れ、富山のリハビリ病院へ3か月も入院し、ようやく帰京した直後に雑誌は刊行されている。あれほど、家庭裁判所で調停委員の前で「今後一切、お互いの悪口を言わない」と誓った上で、慰謝料を払っているのに、また彼女はやらかした。理不尽である。

 悔しいけど、体調が思わしくなく、反論できなかった。そんなボクがやったことと言えば、笹塚駅前の京王電車が地下から地上へ姿を表すところで、投身自殺を試みょうとしたことだ。でも、電車のゴウという爆音に恐れをなし、早々と自宅へ引き返した。前のかみさんには深く感謝しているけど、「クロワッサン」の件と、ボクが78年に沖縄で映画『沖縄のハルモニー証言・従軍慰安婦』の主人公・裵奉奇さんに引っ張り廻されておろおろしてた時に、男を三鷹のアパートに引っ張り込んだ事実はやはり許せない。
 恥ずかしいから今まで人には言わなかった。でも、そろそろ死ぬから、その前にせめて一矢報いたい。

 最後の2点目は「全身クラリネット」と命名した明子のことである。ボクが71歳で、明子が41歳の時にたまたま出会っている。ブサ面だから、そのコンプレックスの裏返しで美人ばかりと付き合ってきたが、明子は取り立てて美女ではない。100点満点の70店前後で、成績評価では良である。編集や校正等の出版の裏方の仕事をしている。ただし、言っていること、「結婚は天皇制の延長である」等、かっての全共闘の女子学生を思い出させ、すこぶる好感を持った。
 もう一つ、感動させたのは感度の良さである。sexしていて、これだけ反応すれば、男もいきり立つ。「全身クラリネット」と書いたが、吸って吐く、触るだけでもう小刻みに体が震えだし、止められない。声も大きい。思わず口にタオルを突っ込んだほどである。今迄100人近くの女性たちとまぐ合ってきたが、これほどの名器は初めてだった。これでは、関わった多くの男たちが早めに死ぬのは良く解る。明子の「女性自身」はブラックホールである。すごい吸引力である。
 効果、不幸か、明子とは1年も付き合わなかったが、sexの喜びを伝えたいと思い、あえて自分の体験を公表する。

 書き終わっても、「自分というのは女にとって何だったのか」、をずっと考えている。どうも「都合のいい男」「もっと上に行くための踏まれ石」「何でも話を聞いてくれる男」だったようだ。
 でも、ボクの側から言わせれば、女たちは「人の生きがい」、つまり「愛されること、愛すること」が人生最大の喜びを教えてくれる存在だった。もっと突っ込んで言えば「惚れた女の濡れ
たまんこにいきり立ったちんぽを入れ、お互い高まりあい、そして射精すること」が男の最上の歓喜だということだ!

 これからもっと思考を深め、人間の喜びについて書いていきたい。
 (もちろん、大学でフランス語を共に学び、NHKの下請け会社の社長、会長等を歴任した
赤岩から「下品な!晩節を汚すな」の怒りの言葉が返ってくるが…)

2022年6月17日 (金)

越中源氏-「走馬燈 女達の深き欲望」-デッサン⑦

 最後に自分は何だったのか、書いておきたい。結局、女たちにとってボクは「踏まれ石」「都合の良い男」ではなかったのだろうか?もっと上の世界へ行くための、自分の欲望を満たす存在ではなかったのだろうか。例えば、映画『沖縄のハルモニ』を作り、朝日新聞で紹介されてから、全国の大学、市民サークルからの上映依頼が殺到した。映画上映後、30分前後、客に話をし、希望者に名刺を渡すと、半月後に女性客から電話がかかってくることがよくあった。ボクとの出会いが、上京のきっかけになったようだ。ボクの下井草のアパートを根城に動き回り、そして渡米したり、東京で就職したり、それぞれが羽ばたいていった。

 また、80年代にカンボジア難民を取材に、国境の町アランヤプラテート(タイ)で滞在していた時、NGOの女性日本人スタッフとよく会食していた。いったんレストランを出て、宿泊先のホテルへ戻ったところ、コン、コンとドアが叩かれる。ホテル内と言えども、治安が極端に悪いので緊張して、「誰」と聞いてみる。「わたし」と屈託ない返事が返ってくる。つい5分前まで食事をし、酒を飲んでいた大学を出たばかりの女性ではないか。新宿西口の行きつけの飲み屋「壺屋」の常連で、癖の強いおばちゃんの話で盛り上がったところだが、こんな夜遅く、危険なボクの所へまで押し寄せるとは想像だにしていなかった。よほど溜まっていたのか、1回抱くだけで、また宿舎へ戻っていった。
 
 女の人を、特に「性欲」を無視したり、軽視したりすることは女性の全体像の半分を見ないことになる。女性も「性欲」は漲っているわけだし、折あらば、いい男と「まぐ合いたい」と密かに思いめぐらしているのである。いくらブサ面でも、貧乏でも、女性たちが引かれる何か魅力があればよい。今村監督にしても、斎藤茂吉にせよ、決してイケ面ではないし、今村さんはデブで、斎藤茂吉は異様なほど体臭がきつかった。それでも、女に惚れられるのは、作品群があったからである。
 女たちが体を開いたのは、彼らが作った作品への「あこがれ」「尊敬」が根本にある。翻って、ボクのような吹けば飛ぶようなB級監督、書下ろし作家に身に余るほどの女性たちが寄ってきたのも、作品が面白かったからだ。

 特に前のかみさんと別居してから、笹塚の我が家へ様々な女性が訪れた。JALのスチュアーデス、聖心女子大で学んでいたTVデレクター、某大新聞の記者、看護士等、すべては覚えていないが、その根底にあるのは「パートナー探し」である。30歳前後の彼女たちは必死に男を求めていた。その候補の一人に最初は挙がっていたが、やはり将来性が問題になり、次第に疎遠になる。
 そのうち、荒淫が祟って倒れたが、唯一残ってくれた「カンボジア難民支援」NGO職員の現在のかみさんに救ってもらった。

 もう、お迎えが来るのは時間の問題だが、最後に行っておきたい。もちろん、「晩節を汚すな」と連呼する級友赤岩君に怒られることは百も承知だが、あえて死ぬ前に残しておく。

 男の喜びは「女に愛され、女を愛すこと」だが、最大の歓喜は「愛する女の『女性自身』へ射精する」ことではあるまいか!

 

 

2022年6月15日 (水)

越中源氏ー「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン⑤  

 ボクたち、団塊の世代、特に周りに多い全共闘世代の男たちは、えてして女性たちを理想化しがちである。女たちのリアルな性欲を見ようとはしない。男たち同様、女も性欲が強いのである。ボクは最初の体験である沖縄での少女たちの「逆ナンパ」をたまたま体験して、そういう考えを次第に育んできた。第一婚約者の「ツンでれ」和子に始まり、第七婚約者ミシエルに至るまで、ボクの確信-「女たちの深き欲望」は徐々に固まっていった。
 理想化する原因は、学校で具体的に「性教育」しないからである。体の構造、特に「男性自身」「女性自身」をあえて、細かに教えれば、納得すると思う。男女の「性差」は歴然としてあるのである。そして、変な「理想化」も消滅する。現在の子供たちに較べ、残念ながら、ボクたち、団塊の世代は具体的な「性教育」を受けてこなかった。下宿先でセピア色に変色した「女性自身」の写真をこっそりと皆で見ることが、唯一の「性教育」だった。

 今日も新宿、渋谷のミニシアターでは、「自分探しの旅」を模索している人たちが多い。年齢はあまり関係がない。「美しいがゆえに」の百合子の例がある。古希なのに、自分を本当に理解してくれるようなパートナーをおずおずと求めている。
 負けずに、古希を過ぎても、ボクの同期のように、女性を探し求めて、白髪を染め、レアなビフテキを毎夕食に食べている人もいるのである。男の30%前後は未婚、離婚で孤独死を迎える。同じく独り身の女たちは介護を考え、60歳を過ぎた男性は、パートナーとして問題外である。でも大歌人・斎藤茂吉のように52歳の時に28歳下の弟子・永井ふさ子に出会い、「あなたの体を思い出すだけで、ボクは眠れません」と、まるで高校生のようだと思う。でも、初老の茂吉は24歳の美女に夢中になり、体力の限り、振り絞って、精液を出しているのである。よくぞ、腹上死しなかった。よぼよぼの茂吉を受け入れたのは、24歳の永井ふさ子の師・茂吉へ尊敬である(永井ふさ子著「斎藤茂吉・愛の手紙に寄せて」 求竜堂 1981)。
 
 女性自身は「ブラックホール」だと、ボクは思う。時間、金、体力、そして精液すらギリギリ吸い取るのだが、頭では判っていながら、男たちは魅力に抗えず、吸い寄せられていくのである。幸い、軽度の段階で手を引けば、致命傷にはならない。しかし、「全身クラリネット」明子のような感度の良い女体を知ってしまうと、荒淫の果てに古希の前に疲労死する売れっ子ライターが出てくる。

 ボクのようなB級監督兼書き下ろし作家が「脳卒中」「心筋梗塞」「大腸憩室出血」等、全身重い後遺症だらけで生き延びていることは自体が奇跡である。確かに目、頭の毛は薄くなっているし、耳は補聴器を入れないとよく完全に聞き取れないし、かんじんの「男性自身」も21年3月椅子から転げ落ちて以来、勃起不全である。歩くのでさえ、補助器(サード・ケイン)がないとお手上げである。お迎えが来るのは時間の問題である。
 でも、やることはやったし、ほとんど思い残すことはない。ただもう一つだけ、ささやかな希望がある。それは茂吉が死ぬ間際に永井ふさ子に出会い、最後の命の炎を燃やし尽くしたように、ボクも第二の「全身クラリネット」明子にぶつかりたい。そのため、「艶福者」として、多くの女友達を作り、その中で第二の明子と出会いたい、と強く思っている・・・。
 

2022年6月13日 (月)

越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン④

 そのうち、フランス語の研修のため、パリに移った。75年9~11月のことである。3か月の短期集中コースを選び、パリ大学付属語学学校へ通った。でも、授業料は高かった。
 ロンドンでは高校を出て英国に来て、安い公立英語学校で学ぶ真面目な、若い女性が多かったが、パリではフランス語を学ぶというよりも、フランス文化の雰囲気に浸りたいという日本人ギャルが多いように感じた。だから映画好き、シャンソン好きで、華やかで、軽い雰囲気の女性たちが主流である。
 その中で、パリ大付属は大学を出てからフランスへ来た22~23歳の女性が目立った。大学で第二外国語として、フランス語の基礎を終えている。今でも覚えている限りでは慶応、同志社等のOGたちである。上品ではあるが、堅っ苦しいお嬢様たちである。遊び好きなギャルたちとは一線を画していた。でもボクとはあまり縁がなかった。ボクが関係したのは、日本映画クラブの人たちである。

 パリ大学の講堂で『仁義なき戦い』(深作欣二監督 1973)など東映ヤクザ映画が多く、熱心なフアンを掴んでいた。ここでクラブを手伝っていた日本女性と知り合い、簡単に「合体」。ロンドン以上に手間暇がかからない。そもそも、そういう女性たちがパリに流れているんだろう。釣り堀に座って、竿を垂れるだけで次から次へと、若い、華やかな女性たちが引っかかってくる。70年代は黒澤明がまだ現役だったし、大島渚、今村昌平たちが『儀式』『復讐するは我にあり』と言った問題作を出していた時期である。映画監督がまだまだ尊敬されていた時代である。その余光で、ボクのような駆け出しのB級監督ですら過大評価されていた。だから日替わりでガールフレンドを変え、忙しかったけど、楽しかった。

 そこでミシエルと出会ったのだ。
 帰国後、ミシエルに手紙を出したのだが、初めのうちは返事が来ていた。しかし、次第に手紙が遅れ、ついにはまったく来なくなった。ミシエルは来日のリスクを考えたのであろう。
 帰国して映像の業界で、徹底的に干され、仕方がないので、雑誌に原稿を出していた。そこで「日記を食う洋子」と出会ったのだ。前にも書いたとおり、洋子は映画作品『うりならマンセイ』(77年)のプロデューサーをかって出てくれ、『沖縄のハルモニ』(79年)を製作半ばまで支援してくれた恩人である。ボクが現在、「監督」として末席に連なることが出来るのは、ひとえに洋子のおかげである。その反面、高岡駅で土下座させられたり、『沖縄のハルモニ』を沖縄で撮影中にオトコをアパートに引っ張り込んだことや、離婚後雑誌「クロワッサン」に、あれだけお互いの悪口を公表しない事を家庭裁判所調停委員の前で誓ったのにも関わらず、一方的に洗いざらいぶちまけ、そのショックで生まれて初めて、自殺を試みた。とにかく「はげしいひと」である。その後遺症で現在まで苦しんでいる。

 洋子と離婚し、「愛の呪縛」から解き放たれ、ご乱行が続いた。身長170センチ、体重62キロ、さして取り柄がない「ブサ面」のボクだが、作品だけは残した。映画『沖縄のハルモニ』、書下ろし『じゃぱゆきさん』(85年 情報センター出版局、後に講談社文庫、岩波現代文庫)がヒットし、未だに生活を支えている。これを見たり、読んだりした人は勝手に想像力を膨らましている。でも、会ってみるとがっかりする人が多い。余りにも生活が保守的(救世軍のバザーで市価の1割で買う英国製のコート、ジャケットを少なくとも20年以上使う)で、喋ることはほぼ朝日新聞の社説のカーボンコピーだからである。
 にも拘わらず、女性たちと合体することが多かった。女の人たちの深き欲望を満足させる、何かがあるのだろう。
 古希になっても、まだまだ「夢追い人」の雰囲気が残っている。新作の事を夢一杯、滔々と語るのである。語る時は相手の目を直視し、ずっと外さない。女性たちの中には、『私のことを愛している』と錯覚する人が稀には出てくる。彼女が胸の中で夢見ている「白馬の王子様」に一刻、ボクが化けるのである。

2022年6月12日 (日)

越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン③

 この「根拠なき自信」でそれ以後の人生をぶっ飛ばしたようなものである。70年前後、早大大隈講堂の裏や学生会館には各演劇サークルの部室があり、それを目当てに他大学の女子学生たちも集まってきていた。不安そうに目をキョロキョロしているから、他大学の女子学生だということはすぐわかる。挨拶し、近くの学生喫茶・早稲田茶房へ案内し、徐々に仲良くなっていく。
 それだけではなく、頭でっかちのワセ女の友達たちと「沖縄問題研究会」「ベトナム反戦同盟」等を作り、夜遅くまで喧々諤々、論議した。余り遅くまで話し込んでいるので、終電を逃す子もいて、流れで上井草のボクの下宿に泊まる子も出てくる。あれほど、攻撃的な女子学生が、いざボクの下宿で電気を消し、「合体」となると、ぶるぶる震えていんの!それでも、前もって経験している子も多く、処女はほとんどいなかった。

 沖縄に通っていたため、教養課程で1年留年し、70年春にようやく専門課程(人文科)に進学できた。歓迎コンパで「ツンでれ」和子と知り合い、それから「半同棲」を始めた。卒業するまで実によく尽くしてくれた。週に1~2度、都立家政にある彼女のアパートへ通い、夕飯を食わせてもらい、その後SEXである。彼女もSEXが好きで、盛りがついた犬のように継がっていた。
 てっきり、卒業後に結婚するつもりで母に紹介し、向こうの母ともお会いし、式の準備に入っていたが、和子が昔のボクの日記を見たため、急遽破談。まさか6年後に同じことが起きるとは予想だにしていなかった。この時はボクが被害者だったが…。

 「捨てる神あらば、拾う神あり」。和子に捨てられ、ワセ女の寿司屋の娘と付き合っている時、「全共闘-解放の女神」恵子から突然の電話がかかってくる。どうせ「中大のイモ女」だろうと高をくくって会ってみると、びっくりするくらい奇麗な4年生だった。ボクの人生、最高の美女である。こちらがドギマギするくらいだった。何故か、恵子がボクを買い被りすぎ、一方的に尽くされた。それが、映画『みやこ』の撮影中、婚約破棄。恵子が「恋する自分」に恋し、自己陶酔し、やがて冷静になった時、「夢追い人」との危うい生活に危機感を持ったのだろう。

 いろんなトラブルが続いたが、なんとか74年春には『みやこ』が完成した。しかし、興行は惨敗。赤字だけが積みあがった。
 やはり、観客は刺激を求めているのだ。沖縄の孤島の島民の生活なんぞ、興味がないんだ。その現実を客から突き上げられ、映画の方法を考え直した。ドキュメンタリーの素材は魅力がなくてはいけない。それが『沖縄のハルモニ―証言・従軍慰安婦』の作品作りに反映していく。
 不幸中の幸いなことに、文化庁1974年度芸術家在外研修生に『みやこ』の監督、ボクが受かった。本来ならば、本命の東宝監督が通るはずだったが、たまたま老審査委員の一人と喧嘩していて、その人の強力な反対で、まさかの落選である。代わりにキャリアがほとんどないボクが出した、「1930年代英国記録映画運動の研究」という地味な研究テーマが長老審査委員たちの気に入れられ、当選することになる。
 「当選です」と文化庁から連絡があった時、我が頬を叩いてみた。痛い、やはり本当なのだ。

 74年11月から英国文化振興会(BC)から紹介されたシャーロック・ホームズ宅近くのフラット(ベーカーストリート)で生活することとなる。立派な住宅である。初めのうち、真面目にBFI試写室に通い、戦前の英国記録映画を見ていたが、予想以上に退屈だった。書物も心惹かれるものはなかった。代わりにルイス・ブニュエル(スペイン)、ケン・ラッセル(英)という狂ったような映画を撮り続けている監督に心をわしずかみにされ、ロンドンの情報誌「Time Out」を持って、両監督作品の「追っかけ」になった。

 一方、余りにも英会話ができないので、公立英語学校へ通った。安い費用なので、アジアやアフリカなどの移民たちが多かったが、中には20歳前後の日本女性グループもいた。「自分探し」の旅を英国で続けているのだ。多くは高校卒業後、働いてから金をため、友人、知人を頼って英国に来る女性たちである。英国の人たちが眉をしかめる貧民街アールスコートの安フラットに友人たちと住み、金がある間は英語学校に通い、乏しくなれば「オペア」(女中のようなもの)として働いていた。何人かと友達になり、ベーカーストリートのフラットへ招待したが、余りの豪壮さに驚く女性が普通だった。
 ある可愛い19歳の少女とアイルランドへ4泊5日一周したが、夜いざまぐ合おうとしたが、「女性自身」に入らないのである。おそらく処女だったのだろう。余りにも、頑なで挿入を諦めた。ボクの人生では最初で最後の体験である。いろんな女性がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年6月11日 (土)

越中源氏-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン②

 沖縄には68年の夏休みにもう一度行った。今度は今村昌平監督『神々の深き欲望』の助手としてだ。新聞で尊敬する今村監督が沖縄で新作を撮影することを知り、印南喬教授に紹介状を書いてもらい、当時京王線幡谷駅近くにあった今村プロへ面接に行った。面接担当は印南さんの教え子だったし、今村さん自身、早稲田の先輩だったので、即採用。ただし、タダ。面接翌日から今村プロへ通い、当時『東シナ海』(磯見忠彦監督 68)と同時進行していた『神々の深き欲望』の細々とした準備を手伝った。手伝うだけでなく、映画で踊る稽古もプロの役者たちに交じって特訓された。
 いざロケ地である石垣島川平集落へ夏休みに行っても、主演沖山秀子が怖がって、撮影中にネズミを次から次へと絞め殺すので、先輩とゴミ捨て場でネズミを夜、捕まえることなど、汚れ仕事が多かった。何よりも参ったのは、集落のガキたちが、ボクら下っ端助手たちの合宿所(川平公民館)の前に集まり、朝顔を洗おうと公民館前にある洗面所に行こうとするボクに「ウゥ、ウゥ」と沖山秀子のヨガリ声を合唱して、真似てみせるのである。夜、沖山秀子の宿舎で今村さんとのsexを子供たちが忍び寄って逐一聞いているのである。突然のことなので、びっくりするボクが面白いらしく、まだ小学生の坊主たちに毎朝、繰り返し、繰り返し、沖山秀子の日毎変化する歓喜のヨガリ声を聴かされた。

 そのうち、川平湾に面して唯一ある、「川平ホテル」のジュークboxで、当時流行っていたサイモン&ガーファンクルのレコード「コンドルは飛んでゆく」「ミセスロビンソン」等を、ロケが終わってから一人で聴いていると、集落の浅黒い少女たちが寄ってくる。彼女たちも好奇心一杯で「色の白い東京の学生」をナンパに来ているのだ。せいぜいで高校生、多くは中学生のまだ乳房も発達していない幼い少女たちが「どこから来たの?」「今、何をやっているの?」と慣れない標準語で迫ってくる。その中でもひと際、目立つ美少女を選んで「川平ホテル」下の砂浜でチュウしたり、幼いオッパイを揉んでみたりしたが、まだまだ挿入するほどの踏ん切りがつかなかった。いま射精すれば、妊娠する可能性は強まる。責任を取らされる。それを知ってか、知らずか少女は挿入を迫る。春休みに那覇・国際通りの裏町でナンパされた少女も同じだ。もちろん、両者ともに処女ではない。しかし、ボクはまだ童貞である。

 おふくろに「勉強のため」と、無理を言って送金してもらい、川平集落から30分ぐらいタクシーを飛ばして、石垣市の女郎宿へ通った。タクシー代が3ドル50セント、チョンの間(射精1回)が同じく3ドル50セント。ただ、往復のタクシー代は同じ今村組のスタッフで割り勘にするから、2ドル余り。相方の娼婦はタクシーの運転手に相談して、外れがないようにしていた。1回6ドル(当時2160円)あれば、女郎屋へ通える。
 女郎屋の名前は「蓄音機旅館」「大浜旅館」等が記憶に残っている。飲み屋、キャバレーが密集している繁華街から、少し離れ、女郎屋は固まってある。薄暗い赤電灯が軒先に吊るしてあるから、判りやすい。ボクが童貞を捧げた(射精迄行った)のは、蓄音機旅館の典子だった。「那覇から海水浴に来たんだけど、金が足りずアルバイトをしているの」ともっともらしい口上で、さっさと下着を脱ぎ、ベッドで股を拡げる。30歳前で肥満体である。こちらは薬局でゴムを買い、2~3分腰を動かしていただけで、もう我慢が出来ず、射精をする。
 石垣港近くにある喫茶「朱欒」で待ち合わせ、それから公民館に帰るのだが、女を買った後は洗面所の水道で繰り返し、繰り返し、「男性自身」を石鹸で泡立てて洗った。自分が梅毒に感染されているという思い込みが強くあった。

 そのうち、石垣市内にある「蓄音機旅館」へ通わなくなった。タクシーの運転手から「あそこの英子は30前で可愛いですよ」と勧められ、いざ合体しょうと乳房に手をかけると、母乳が出てくる。あれ、出産後すぐに客を取っているんだ。復帰前の沖縄は、内地に比べれば売防法は緩やかであった。それでも、母乳が滴り落ちる娼婦は珍しい。急に何か悪いことをしているのではないか、と反省し、英子に会ってから女を買うことは断念した。その代わり、町の中央にある商家の可愛い一人娘と知り合い、暇さえあれば、立ち寄ってお喋りしていた。
 
 大学2年の時に今村昌平監督の「神々の深き欲望」を手伝って、その後のボクの人生は大きく変わった。それまで「ブサ面」を恥とし、女性たちの前ではいつもモゾモゾしていたが、撮影現場で今村さんを見続けていくうちに元気が生まれた。こんなデブ、チビ、それにダサいオヤジよりもボクの方がもっと格好いい。ボクの方がモテて当然だ。ただ、作った作品がない。それさえあれば、俺の方がもっとやりたい放題なんだ!その根拠なき自信がボクの人生を大きく変える。

 

2022年6月10日 (金)

「越中源氏」-「走馬燈 女たちの深き欲望」デッサン①

 恥ずかしい話、ボクはこれまで7回婚約し、そのうち結婚まで漕ぎ着けたのは2回だけである。結果的には二勝五敗になる。
 第一回目の婚約は学生時代同じゼミの「ツンでれ和子」である。これはボクが一~二年前にポン女の学生と、西武新宿線上井草駅近くの下宿で合体したことを書いた古い日記を和子が見つけ、それで結婚寸前までいっていたのが、突然の破談となった。
 第二回目は、ミス中大どころか、ミス東京といった美女と大学卒業後、婚約したが、映画『みやこ』を沖縄で撮影中、婚約破棄された。今迄、ラブラブの手紙が毎日、届いていたが、急に来なくなり、戸惑った。幸か不幸か、録音機材が故障し、カメラマンを水納島に残したまま、ボク一人が帰京し、ソニーに新品と変えてもらった。その時に「全共闘-解放の女神」と、横浜で会って真意を確認したが、やはり婚約解消の一点張り。「夢追い人」の貧乏さに気づいたようだ。ホテルで殺意が沸き上がってきたが、水納島で一人待っているカメラマンの事を思い出し、踏みとどまった。
 第三回目は、同時期に早稲田を卒業した「日記を食う洋子」である。初めて、婚約から結婚までたどり着いた。梨園とも関わる美貌だったが、とにかく「はげしい人」だった。フランス映画社の過激な組合員で、フエミニズムのリーダーでもあった。ボクはべたぼれで「愛の奴隷」だった。でも、さすが郷里(富山県高岡市)の駅の待合室で、つまらない事で土下座を強要されたり、『沖縄のハルモニ』を撮影中、三鷹のアパートへ男を連れ込んだことが日記で判明すると、堪忍袋の緒が切れた。それから離婚に至るまでの約四年間は我が人生の中で最大の屈辱である。思い出すたびに顔から火が出るほどである。
 第四回目はボクが拾ってもらったようで、未だにかみさん(再婚相手)には頭が上がらない。ずっとNGO(日本ボランティアセンター)でカンボジア難民救援等を担当してきた人である。80年にバンコク東京銀行支店で偶然、ぶつかった相手でまだ27歳の若さである。Tシャツ姿で、若さでぴちぴちし、余りのまぶしさに目を泳がせたほどである。洋子と離婚後、暴飲暴食、荒淫が続き、倒れ、3か月もリハビリ病院に入院するくらいだった。「逃げ水のお京」以下、ガールフレンド全員、さっさと見限り、ボクが後遺症を抱え、これからどう生きていこうか、悩んでいた時、唯一手を差し伸べてくれたのが「お釈迦様の手の中で」秀子だった。それから36年、ボクが生き残れたのはひとえに秀子の健康管理のおかげである。

 第五の婚約者は雑誌等のフリーランスのライターをやっていた恭子である。ボクの娘の母である。てっきり、子供が出来たから結婚するものだと思っていたが、余りにもこちらの財布ばかり当てにされ、珍しくボクの方から婚約を辞退した。
 第六の婚約者は大阪でピアノを習っていた佳子である。たまたま、地元でジャズ喫茶の前を通りかかると、ちょうど自宅に帰る佳子と出会った。感じの良い子だったので近くの喫茶店で話し込んだ。こっちも前のかみさんと別れたばかりで、時間があったので、佳子が京都でまた会いたいと電話で切望するので、京都まで新幹線に乗った。東京行きの最終時間までおしゃべりをして、駅のプラットフオームでサヨウナラをしょうとしたところ、佳子が別れたくないと、ボクを列車から引きずり下ろす。それからが大変で、佳子の寮にボクが電話をし、外泊許可をもらい、また「全共闘-解放の女神」恵子と同じように祇園のラブホテルへ行った。恵子と違うのは、佳子が処女だったことだ。肌が滑らかで,張りがあった。1~2年、付き合ったが、そのうち連絡が来なくなった。向こうも結婚の事を考え、「夢追い人」との貧乏な生活に見切りをつけたようだ。
 最後の第七の婚約者ミシエルについて触れたい。75年に文化庁在外研修生として、パリで生活していた時のことだ。たまたまパリ大学の講堂で映画『みやこ』を上映してくれることになり、40~50人の客が来てくれた。その時の客の一人がミシエルだった。身長165センチ、体重60キロ、オッパイの大きな女性だった。ボクが27歳、ミシエルが25歳。映画が終わってからもミシエルは残ってくれ、二人だけで話すことになる。ミシエルはユネスコの非常勤の職員だったが、英語がまだ完全ではなく、ボクが英語を喋り、ミシエルがフランス語でそれに答える形をとった。翌日、『アラビアのローレンス』を見に行ったが、こちらは映画どころではなく、暗闇の中でミシエルの手を握ったり、左の耳に息をかける等、もぞもぞ動いていた。そのうち、ミシエルのアパートに移り、合体。「チュ フエ マル」(いたずらしないで)の乱発で、日本女性にはない重量感に圧倒された。
 ボクのフランス語はパリ大学付属語学学校で学んだより、ずっと多くのものをミシエルのベッドで学んでいる。帰国してミシエルを日本に読んだが、とうとう来日しなかった。日本での生活に不安を覚えたのだろう。

 七人の婚約者のことはよく覚えている。
 それに最近深く知りあうことになった「全身クラリネット」明子、「美しいがゆえに」百合子も、生々しく思い出せる。とりわけ、明子は「多情仏心」でさんざん引っ張り廻されたが、彼女が火を付けねば、この本、『越中源氏-女たちの深き欲望』は出来なかった。それだけ女体も心も魅力的な人だった。一方、100人近く、この半世紀で関わってきた女性のあらかたは良く覚えていない。記憶をたたき起こし、一人ずつ、確認するけど、大方は厚いベールに覆われたままである。そこで、無理やり記憶の奈落から引っ張り出し、書いていきたい。

 ボクの最初の女性体験は、「復帰前」68の沖縄である。沖縄に行ってショックを受けた友人から、「
ぜひ行ってこい」と強く勧められ、大学1年の春休み、パスポートを持って2泊3日の船旅で那覇に着いた。琉球大学の寮に泊まり、国際通りの裏町を歩ていると、色の浅黒い子供たちが列をなしてボクについてくる。色の白い東京の学生というのは68年の沖縄では珍しかった。そのうち、ヤンキーみたいな少女に話しかけられ、1時間後にまたこの横丁で会うことになる。約束の時間に行ってみると、まだ高校生みたいな少女が一人、ボクを待っているではないか!
 彼女に引っ張られ、近くにあるラブホテルに入る。ホテル代は前もって払ってあるようで、少女がもじもじ服を脱ぐ。どうも東京からの色白の大学生と合体したいようだ。浅黒で、白の木綿のパンティがやけに目立つ。ブラジャーはAカップで「微乳」と言ってよいぐらいである。しかっし、性欲は人一倍あるようで、挿入をねだる。でも、その頃はまだ童貞だったので、射精すれば間違いなく、妊娠すると信じていたので、チュしたり、お互い裸のまんまで「男性自身」「女性自身」を弄ぶだけであった。「微乳」は触るだけで反応があり、口で乳首を引っ張ると「ウゥ」とくぐもった声が漏れるだけであった。結局、朝の8時までお互いの体を弄っていただけである。
 沖縄の少女たちの積極性に魂消た。まだ15歳だぜ。琉大寮にフラフラで帰り、夜迄爆睡した。


2022年6月 4日 (土)

「越中源氏」-「美しきがゆえに・・・」デッサン⑦

 ゆりっぺの話は、このような類の話が多すぎる。最近では近くの老「B級芸能人」が集まって作った「劇団」の公募の知らせを地域の広報誌で見て、ゆりっぺが突然、応募した。マンションはあるし、父母からの遺産は充分残されているので、老後ゆりっぺは悠々自適である。昔から芝居を見てきたので、審査眼は充分にある。そこで死ぬ前に自分も舞台に立ちたいと思ったのだ。
 応募を受けた劇団はまさか、これほど上品な奥様が来るとは予想だにしていなかった。ゆりっぺは日本舞踊の師匠である母から着物の着方、踊りの所作などを小さなころから教え込まれているので、他の半アマチュアである劇団員の中では際立って目立った。劇団に来てすぐに時代劇で大役がついた。面白くないのは古参の女性劇団員である。「美しいがゆえ」にゆりっぺが来てすぐにやめる人や、ゆりっぺに嫌がらせをするベテラン劇団員もいた。その反面、相好を崩して喜んだのは劇団主である老芸人たちである。

 さりげなく、ゆりっぺの体に触ったり、「結婚しょうよ」と脈絡もなく、ゆりっぺの傍でつぶやいたり、お爺さんたちはゆりっぺが劇団に入ってから急に色気づいた。ゆりっぺはそんな爺たちを嫌がるわけでなく、ニコニコ受け入れていた。理由を聞いてみると「女というのはこの年なっても 、『結婚しようよ』と言われたらドキドキするものよ」と、たいそう喜んでいる。
 義父も94歳で大往生を遂げ、ゆりっぺたちも介護で大変だったらしいが、「美しいがゆえ」に義父がゆりっぺにセクハラして、心底困ったらしい。でも、邪険にすると遺産分配の時にしっぺ返しが来るので、ゆりっぺは長男の嫁に世話をさせ、危機を乗り越えたらしい。ゆりっぺが芝居の道に入ったのも、渋谷アップリンク「11AM劇場」に来れるようになったのも、義父の葬式以降、心のゆとりが出来てからだ。

 歌舞伎町二丁目ラブホテル「フランセ・パリ」で今までの事を洗いざらい吐き出してもらい、ゆりっぺとこれからどう付きあって行こうか、ボクも悩んだ。確かにゆりっぺは古希になっても、まだまだ色香は残っている。彼女と歩いていても、周りの人は振り返る。
 しかし、女性と長く付き合ってきたボクは以下の三点で引っかかるところがある。
 1-2度の出産と4度の堕胎で体はもうガタガタではないのか?以前、フエリス女子大を出た美女と付き合ったことがある。大隈講堂傍にある演劇サークルに群がる女子学生だったが、離婚後、たまたま会い、高田馬場にあった彼女のアパートで酒を飲んだ後に合体した。子供たちは両親に預け、またまた早稲田OBを狙って、婚活しているようだった。まだ30歳前後で容色は劣ろえていなかったが、裸にすると、乳房は垂れ下がり、二人の子供に吸われた大きな乳首は真黒で、かんじんの「女性自身」は大きく広がり、入れている実感は全く得れなかった。その体験が生々しいからゆりっぺとSEXすることは躊躇いがあった。
 2-60歳代に入ったゆりっぺが幼馴染と、広島-宮島神社へお参りに行き、ホテルで夜合体を試みたが、「女性自身」からの出血が止まらず、SEX出来なかった告白を聞き、せっかくの艶麗なゆりっぺとは最後まで行けない、恐れをついつい考えた。
 3-ゆりっぺの夫のことだ。いくら「家庭内別居」とはいえ、法律的にはまだ夫である。もし、万難を排し、ゆりっぺと合体し、これからも月1~2回付き合っていくならば、当然夫から「不倫」の「請求書」がボクの所へ届けられる。夫は経験者だから、すぐ出すだろう。相場は約200万円。それだけの金額のお金は今用意できない。

 あれこれ悩んでいると、ゆりっぺが断を下す。「意気地なし。根性もないのに、私を抱こうとして。今から帰るから」
 
 その夜、ゆりっぺからメールが届いた。
 「あんたたち、田舎っぺが東京に来るから東京は住みにくくなるのよ」

 ゆりっぺは怒ると、毒々しい言葉を吐き散らかしてきた。
 夫の不倫相手に「秋田出身、高卒」
 ゆりっぺの10年間の愛人・東工大助手へ「田舎っぺ、イモ」
 短大卒の妹へ「頭が悪すぎる、私の遺産配分を狙っている」
 母へ「父を取られると思っていた。だから私に邪険だった」
 夫の第二の不倫相手(小学校同級生)へ「ケバい化粧のブス」

 見るからに上品な百合子は、今日も何処かで喚き散らかしているのだろうか?
 「女は排泄便所ではないのよ。私の青春を 返して!」

 でも諸悪の「根源」である夫とは、家庭内別居を続けながら、決して離婚をしない。  

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